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このところずっと感じていること
売れてるものがヤクザに見える。
ある時まではいちおうまともに動いていた人間のシステムが今は動かなくなり、ぬけがらになってしまっている。まともに見えるが実は中身がからっぽ。
メディアは当初からそういう性格のものかもしれないが。。ヒトラーが作ったイメージ戦略。虚像の世界。大衆操作。
特に80年頃からイメージ戦略で売る路線が露骨になってる。つまり人間の今までやってきた生き方が行き詰まって限界に来て何も新しいものが出て来てこないからだ。内容が無いのにあるようにやっている。いわゆるだましが横行している。経済活動から文化芸術活動まで全てに渡って言える。そう見れば今の世の中の様子が良くわかる。つまりよくモノを見てレッテルにダマサレルなということだ。
音楽やジャズの業界を見てもまったく同じことが言える。内容が無いのにイメージ先行で売り出す。
一人一人は管理社会の中でより小粒で画一化されているが、個人の力が増している側面もある。権力は弱体化し個人個人までを管理できなくなっている。ネット社会。いわゆる業界は増々弱体化するが、個々のシロウトさんが元気だ。
カオス状態はカオス状態。今まであった権威は益々くずれていっているが新しいスタンダードは生まれていない。
何でもあり。何やっても良い無政府状態。
どんどん小粒になっている。今出て来ている天才は天才ではない。スタイルを作り、時代をリードして来た人が真の天才であって今の若い天才と言われる人は早期教育の産物であり、有るものから有るものを産んでいるにすぎない。年令じゃなくて内容が問題なのに誰もそれを言おうとはせずレコード会社の宣伝に乗せられている。
教育も社会も経済も文化芸術もまさに空洞化している現実を肌で感じる。自分達はもちろん子供達がこんな社会に出て希望を感じられるのだろうか?答えがNOだったら変えなくてはいけない。あらゆる場面で制度が疲弊している。こんな今の時代に売れるとはどういうことだろう?
少なくとも古臭く腐り果てたヤクザな業界のイメージ路線は中身が無いし、企業の使い捨てツールにしかならないことは明白。ここに未来はない。
上からに期待できない以上下から行くしかない。いきおいゲリラ的にならざるを得ない。ただしアングラはだめ。まったく変革どころか貧乏神にしがみつかれている反体制だから。。
全て自前でやる。
『かくて日本は逝く』大竹慎一(フォレスト出版)
三井銀行金融経済研究所から野村證券等を経て、現在ニューヨークで活躍するトップファンドマネージャーの著作。経済に疎い私でもよくわかる明快な語り口、といっても解説本ではない。まっとうに戦う人のメッセージといったところか。ジパン戦記というシリーズの中の一冊なのだが、このジパン戦記というのは従来の官僚主導型の日本の経済システムと自由市場経済システムの相違点と対立点を明確なものにし、まもなく訪れる未来を予測し、あるべき日本の姿を求めるものと巻末にある。2000年下期日本は大恐慌になるという予測ははずれているが、日本の危機に警鐘を発するという意味では理解できる。このシリーズでおもしろいのは、源氏と平家というカテゴリーで現状を表現することだ。ここでいう源氏とは弥生時代以来の農耕村落をを基盤とした「村」の論理に立脚して、日本社会のシステムを作り上げようとするグループで、平家とは貿易や金融取引を通じて国際社会と繋がっている「町」の論理によって、日本のシステムを築くべきだとするグループである。この観点に立って日本史を見ると日本は「おおむね源氏」の支配下にあり、「時々平家」が顔を出したという。それと同時に日本史の転換点には必ず平家的勢力が登場して、時代の転換に決定的な役割を果たしてきた。古代国家から中世武家社会の基礎を築いた平清盛に始まって、近世への転換期には織田信長が登場。また明治維新には尊皇攘夷派が活躍した。旧来の社会システムが行き詰まり、大転換が必要とされる時には、必ず平家的勢力が必要とされる。今こそ現代の平家が立つべき時という。社会が単純に二元論で割り切れないことや、源氏的な村社会が全て悪いわけではないことは、作者もわかっているが、現在の社会システムがにっちもさっちもいかなくなっている大きな原因の一つが旧態然とした官僚主導型の村社会にあることはまちがいないだろう。こういう村の中では、建設業界であれば、製品の質や価格で受注を決めるということは無く、接待をどれだけしたか、政治資金をどれだけ出したかに始まり、頭の下げ方、口のきき方、通いつめた回数、置いてきた名刺の数、最後には賄賂の金額によって受注が決まる。これが建設業界に限らず、日本の至る所に見られる源氏型経済システムである。驚くことに学問や科学、文化芸術の分野でも見られることだ。内容ではなくしがらみで決まる。まっとうに勝負しない社会。閉鎖された村の集まりだからできることだ。だが、今このシステムが崩壊し日本が危機的な状況にあると訴える。日本の官僚、大企業や銀行がどれだけ我々を食い物にして平然としているか正しく知る事は大切だと思う。そしてこれからどう生きるべきか、考えさせられる一冊でした。
断片的な独白(17)
考えれば考えるほど何やっても何かにくくられ、枠にはめれていくんだということ。ミュージシャンだったらアンダーグラウンドかシャンペンミュージック、クラブ系、スタジオやコマーシャリズム系等、マイナーからメジャーまでいろいろなタイプの人がいるがコマーシャリズムにのったいわゆるメジャーの人でも所詮企業やエスタブリッシュメントの手のひらで踊らされているようにしか見えない。本人はそんなこと思ってないだろうけどね。かたやアンダーグラウンドで俺は俺の世界でやってるんだとつっぱってみても、所詮アングラミュージシャンのままなら社会的には何の影響力も無く、おそらく貧乏だから結局は金が無いので金にしばられ、コントロールされている。自由に生きていると錯覚しておめでたくやってるのは本人ばかり、ということになる。何物にも縛られず、稼ぎまくることをやるわけです。先も無い、わけのわからない業界の人ととは所詮話も合わないので、最初から相手にせず自分の事をやっていくのです。でもアングラじゃいけない。
断片的な独白(16)
二元論に未来は無い。常に矛盾を孕んでいると言うこと。善と悪、光と闇、相反する要素が対立している世界。これだと人間永久に浮かばれない。音楽の世界だったらさしずめ、エンターティメントと大衆迎合主義(ポピュリズム)、商業主義や芸術至上主義、スピリチュアルとアンダーグラウンド、反社会的生き方みたいなことだろうか?どっちも先が無いよね。すばらしい芸術性と言うか内面に訴えるような、スピリチュアルな生きる力になるような音楽が多くの人に聞かれるようなら良いわけだ。2,3年したらなんだったか思い出せないような、消耗品の音楽じゃなくて、それでいて気難しく、わかる人だけに訴えるような閉鎖的な音楽でもない音楽。トータル性を帯びた音楽。みんな考えてるんだろうけどなかなかできないこと。
『女にモテたきゃ男を磨け』安藤昇著(双葉文庫)
痛快で、電車の中で読んでいても声出して笑ってしまう程おもしろい一冊でした。安藤昇と言えば大分前に実録「安藤組」とかいうタイトルの映画を見た覚えがあるが、やくざの親分が何を言うかと思ったら、「男は、女を歓ばせてやるだけでいい」と言い切ってしまうのだから、気持ちが良い。また、「男は男に生まれるんじゃない、女に磨かれて男になっていくんだ」とか、(一瞬あれっと思ったが別にボ-ヴォワ-ルをもじったわけではないと思う)さらに「一人の男と一人の女が、この地球で同じ時代に生まれるだけでもその偶然は大変な確立だ。ましてその中で一組の男と女が出会ってベッドをともにするということは、ラクダが針の穴を通るようなものだ。そう思えば、相手にはいくらでもやさしくなれるというものだろう。」とも言っている。やさしいこと、自分の気持ちに素直に生きること、本音で生きることはどんなことにも共通して大事なんだということ。道徳的、禁欲的、小市民的な生き方とはおよそ無縁の、むしろ半端でなく遊んだ人の到達した境地。好き放題やっていてもどこかやさしいのは、この人の持って生まれたセンスなのでしょう。理屈ぬきにかっこよいと感じました。読後一つ気になったのは、子供のことが書いてなかったことです。あちこちに子供つくっちゃっている人なのか知りませんが、そのあたりはどう考えているのでしょうか?
断片的な独白(15)
今、ノーム・チョムスキー氏の本を読んでいる。今更ながら認識を新たにしたことは、我々は企業の宣伝によってコントロールされているということだ。何か社会に問題が起こるとつい政治や政治家が悪いと思いこみやすい。だがそれこそが長年企業は正しいことをして収益をあげていると思い込ませる宣伝の効果以外の何物でもないと言うのだ。最近原発や自動車製造、食品部門等で重大な問題が出て、人が死んだりしてやっととりだたされてきているが、実は昔からずっとそうだったのだ。企業というものは金を稼ぐ目的のためには人の命も省みないものだということ。テレビやメディアは中立の立場あるいは公共の利益を代表していると言った幻想もまたメディア企業のプロパガンダにすぎない。だから自分の働いてる会社やお店が何をしているのかはもう一度考えたほうが良いかもしれない。食べるためにお金を稼ぐわけだが、会社やお店の業務に加担しているわけだから。。。と書くと全て悪いようにとるかもしれないが、考えることは大切だ。俺は俺、なんて社会性も無く孤立無縁でやっていればアンダーグラウンドでお金もついてこないから結局貧乏で不自由な人生になる。といって売れたら売れたで、会社の犬で操り人形じゃどうしようもない。どこまでいっても一部の金持ちのために我々は搾取され続けるしかないように見える。企業や権力の犬でなく、貧乏アングラ人生でもない生き方しますよ!わたしゃ。
個性のある人は自己中だ。輝いているけれど何かの犠牲を伴う。世間の顔色うかがって生きている人は、自分が何だか何したいんだかわからないからただ従う人生だ。世間が右と言えば右、左と言えば左に流れる浮き草人生。権力と大衆、教祖と信者、社長と社員etcどこにでもころがってる構造だ。これが今変わりつつある。一人一人普通の人が個性豊に生きる時代に。。。
『性こそ吾なり 老いてなお色失わず』波多野完治著(光文社)
よく「金と女」という言い方があるが、それは、権力や欲望うごめく、暗いイメージを感じたものだ。ここで言う「女」とは、欲望の対象としての象徴で、長い人間の歴史の中で、性はいつも暗いベールの中に隠されてきた。以前から人間の矛盾の構造の際たるものとして、また、最も本質的なこととして、金と性の問題があると感じてきた。逆に言えば、性や金のことと真正面からむきあっていくことで、わかっていけるのだと思う。空海等、偉大な先哲達もずっと探求し続けてある境地に達したのだ と思うが、特に性はいつも闇に閉じ込められている。誰もが日常的に感じ、行動していることなのにまともに語れないタブーな世界。考えてみれば不思議なことに、本来最も大切なことが最も隠されているという矛盾そのものと言うか…。男女の関係が人間の文明、文化、思想、生活、仕事、全てに反映しているし、不毛な男女関係が次世代の抑圧を作り、連綿と受け継がれていくということもある。人の因って立つところ、運命的なことを作っているのが、男女の関係がどうであったか(子供でであれば父母の関係)によって決まっていくように思える。本書の「性欲の支配下にある現代文明」という項でも述べられているが、性欲とは生命力、エネルギーであると思う。一般的には老人になったら、ただ、じみにして死を待てば良いとする現代社会は、まちがいだらけの性概念に支配されている。年取って、性のことに興味持ったらはずかしいみたいな偏見から脱出し、正直に性に向き合うというか素直になることだ。更に、男中心の男根中心説からの脱却。射精をもって完了とする目的意識と結びついた性意識が、女性、子供、老人を差別してしまうような不幸な社会を作ってしまうのだと言うこと、同感です。性が豊かになったら、人間は今まで経験したことのない、喜びの世界を生きていけるでしょう。
断片的な独白(14)
同じ頃にロイへインズの新譜とジョーザビヌルの本に出会った。こう言うと人によっては抵抗があるだろうが、二人とも古いタイプの英雄だ。ロイはただでさえハードな運動量とパワーを必要とするドラムスを炸裂せんばかりのパワーと繊細さでたたきまくっている。基本的なことは若い頃とほとんど変わっていないが、迷いがなく、たたききっているという点ではむしろ以前より進化しているようだ。久々に感動した。一方ザビヌルは少年のころからジャズが好きで好きでたまらなく、なんとか黒人のジャズを自分のものにすることを必死に追求していたようだ。偏執狂といっても良いくらい一直線でわき目もふらず突き進むという人に見えた。ピュアで行動的、戦闘的な人だ。このような時代を引っ張ってきた英雄タイプの人は今はでない。どんな人なのだろう?何か共通項として究極のエゴイストなのだと思う。本人も言っているが人に合わせて適当にやってる奴とは違うと。だからまわりと衝突することを恐れない。つねに戦いの日々だ。以前ミュージシャンやってた頃よく考えたが良い人は成功しないということ。成功していく人は我が強くて人を倒してまでも自分に固執する。傷つけてることすら意識せずに。こう言う人の宿命は人を倒して成功して、いつかまた倒されていくということだ。自分と周りとの関係はは矛盾をかかえている。やがてあがった運も落ちていく。最初から矛盾を孕んでいる以上必ずそうなる。究極のエゴイストの時代は終わっている。大したものだということを素直に感動しつつもこういう人達の時代の終焉を感じた。
断片的な独白(13)
知識、技術の右肩上がりの進歩は1980年まで。後は細かくなっていっているだけ。音楽の現場にいて感じることだ。今はじめて感じたことではなく、20年ぐらい前から感じていたけれど今ますますその感が強い。昔は知識や技術は幼稚だけれど身体能力や直感、生命力は強かったように感じる。今は、知識や技術の水準は高くなっているが、中身が幼稚になってる。中身が無いと言っても良い。最初は技術が高いからすごいと思うがそのうちなんだこりゃみたいにがっかりすることが多い。内面的危機ということだ。
はじめに良い状態がないと教育によって培われた技術や知識が却って人を駄目にしているようなことを感じる。お金もそうだけれど、技術や知識があることで、何かものをわかったような、できてるような幻想に捕らわれがちになるもの。これがワナだ。確かに教育のおかげで、沢山の人々にものをやれるチャンスができたり、物事を考えたりする基礎ができるからなくてはならないことなのは当然なんだけれど、やりようで良くも悪くもなるということだ。時系列で考えるだけでなく、先進国と途上国ということで考えてもわかると思う。アフリカの人が高度な身体能力や直感にすぐれていたり、見えないものと交流したりすることは、むろん個人差があることだが、一般に先進国といわれる地域の人達より優れていると言っても良いと思う。逆に教育が低いために病気や、貧困、戦争などで落す命も多い。もちろんこれも先進国、持つ国が持たざる国から搾取する構造から来ているわけだが…。
しかし持たざるところも。進歩、発展ということで先進国の方向で行きたいわけだから、今の中国じゃないけれど、結局欲望の再生産という搾取、収奪の路線には変わりは無い。誤解なきように。自由な競争。まっとうな向上心。発展成長の欲を否定しているわけではない。それが無かったら、人間じゃないしね。
内面が豊かで、それに基づいた知識、技術が高められていくことが求められているのだと思う。
自分自身の構造改革やってますか?着々としこしことやってます。頑固、頑迷な人間だからやりたいことは早く納得いくまでやらないと次に行けないのだ。旧態然としたことやってる人はほんと旧態然のまま動かない。だめだだめだとわかっていても動かないのが日本人だから、今のままだと全員玉砕だよね。といっても方法論でやれることはみんなあがきながらもやってるわけだから、そんなものでは何の足しにもなるはずない。いかに自分らしくやれるかだ。世の中変わるといっても今日でお終い、ハイ明日からこうねみたいに変わるもんじゃない。じりじりと二極分化が起こっていて気がついたらすっかり状況も変わってるということだと思う。つくりものでどっかの手先にコントロールされて終わるのか、一人一人が自分の本音で生きはじめるのか。人々はこっちを求めていると思う。
『もっとウソを』竹内久美子著(文芸春秋)
科学とはウソをつくことである。という章もあるように、目からうろこの面白い本でした。なおかつ、大変本質的なことを語っている。すなわち、科学とは本来なぜ、なぜと問うていくことであり、今までと違う発想を次々生み出していくことであると、そして、それ自体が大変おもしろいことであり、イギリスではある時まで、おもしろい発想の論文が認められて、それは必ずしも正しいことではなかったというのです。考えてみれば、この大自然、大宇宙のことで、人間がわかっていることの方がほんのわずかで、世界は不思議に満ちているわけで、むしろ問題なのは、日本の科学の世界がこういうのが科学的であるという固定的なものの見方にがんじがらめになって、ドグマ化していることだ言うのです。科学を信仰の対象のように崇め奉って、そこに当てはまらないことを、排除してしまうような動きがあるようだ。残念ながら日本の社会は科学に限らず、知らないこと、今までに無かったこと等に対すると排除してしまう傾向を感じる。自分の経験でも、音楽家の世界いわゆる業界の世界等その典型と言っても良いと思います。自分がある時期一生懸命勉強した知識、経験に逆にはまってしまって自由じゃないという皮肉な結果になっている。(本来音楽とは自由なもので、これが音楽と言うワク決めはないはずなのに)突出したエキスパートはおそらく柔軟だと思うが、中間的な、専門家、職人、学校の先生等いわゆるプロと言われる人達が一番頭が固くなってしまっている。赤ちゃんや子供達が次々に興味を持って、遊んでいるような、素直な心で生きることが、いつの時代にも、生き生きと元気に生き抜く秘訣なのではないでしょうか。
『芸妓峰子の花いくさ-ほんまの恋はいっぺんどす-』岩崎峰子著(講談社)
5歳で祇園の置屋に入り、15歳で舞妓になり、連続6年間、売り上げナンバーワンの伝説的芸妓の手記。祇園甲部という花柳界での修練、仕事、人間関係のきびしさもさることながら、この人についてまわる過酷な運命と、それを受け入れ、くじけそうになりながらも決して負けない精神力、どんなときでも父親から受け継いだであろう誇りを失わない強さにおそれいりました。仕事に対するプロとしての姿勢、人の事をわかる感性、感覚の良さは、生まれもってのものに加えて、常に考え、工夫している。また、これからの伝統芸能を次代にきちんと残していくことや全体の事、先の事を常に考えている。「自己保身ばかり考えて、自分だけ暮らせればいいという考え方では、これからの時代は乗り切っていけません。中略、慣れることが日常茶飯事になり、自分がしなくても誰かがしてくれると思うことは依存です。誰かがでは無く、自分自身が自立しなければなんの意味もないのです。何度も繰り返してきたように、祇園甲部の存在意義は、あくまでも女性の自立をめざしたものだったはずです。」(本文より)既婚者で、子供もいる勝新太郎との恋も「自分の頭で考えることをすべてやめ、そのときの利夫さん(勝新)に対する気持ちを素直に打ち明けました」と、自分の気持ちに素直に生きる道を選んだ。80年に芸妓を引退し、その後結婚もされているのですが、現在の活動を知りたいところです。
『葉隠入門』三島由紀夫著(新潮文庫)
元禄の太平の世に、武士道の堕落を危機と捉え、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な句は、実は「良く死ぬことは良く生きることなり」という、逆説の書であり、三島が生涯の座右の書と言う有名な「葉隠」の三島流解説書、人生論。戦後日本がたどった欧米化の中で、失った魂、美の危機を早くから見通していた三島の慧眼に驚かされる。又、芸術至上主義を嫌い、文武両道という思想と行動の一致を常に考えていた作家三島の気持ちの代弁者としてこの書物に心強いものを感じていたに違いない。戦後20年の大平の社会の中で、飼い慣らされた、うわべだけの自由から、真の自由と情熱を説いた書。さらに、私自身、高校1年の頃、街頭闘争等に参加していた学生運動の心理的な面–あれに参加していた青年たちは、何か身を挺するものを探して参加したに過ぎず、必ずしもイデオロギーに支配されたり、あるいは自分で安保条約の条文を精密に研究して行動したわけではなかった。彼らは相反する自分の中の衝動、反抗と死の衝動を同時に満たそうとしたのである(本文より)–を見事に見通しているところも、三島の感性の鋭さに驚き、共感した。原書と共に現代の日本社会を憂いた三島の訴えが伝わってくる。良く死ぬこと(生きることの)の出来なくなった現代に警鐘をならす名著だと思います。
断片的な独白(12)
死ぬまでパピヨンでい続ける事(ちょっときびしいか)。
自分達のことだけでやってるのは、所詮趣味の世界。ちっぽけな世界。その中でしか通用しないルール。社会性の無さ。経済力のなさ。力が無いという事。自分をはじめ大半の人達がこれ。社会的な地位があると金は集まってくるが、何かに使われているうちは、まだ体制の操り人形に過ぎない。人にキャッチされるということは、どっぷりハマるということ。一回でもど真ん中にハマってみないと人間のことなどわかるわけない。
断片的な独白(11)
経済的にはデフレ社会、もの、人、金が余り、溢れている。歴史、社会構造的には、2000年以上続いてる文明が根こそぎ崩れていく程の大転換期。ピラミッド型の意識構造、権力構造が崩れはじめている。誰にでもチャンスがおとずれるフラットな時代といえる反面、細かく管理、分断され画一化されていく方向とが同時に起こっている。大変化ゆえのカオス状態はまだまだ続くと思われる。現状を正確に理解し手を打っていける人が勝ち組として残る。5%程ではないか?世界に通用する質の高いサービスが提供できるか。
断片的な独白(10)
この間あるミュージシャンが言っていた。本当にすごいやつは、あいそ笑いなどしなくてもいいけど、技量も無いのが難しい事やってお客に受け入れられないことやるんだったら、にこにこして、わかりやすいものをやる方がいい。同感でした。今の日本(といっても東京中心の話だが)では、エンターティメントとポピュリズム(大衆迎合主義)とがとり違えられているし、かたやシリアスといってもアメリカ、ヨーロッパのコピーの域をでてないから、人に伝わらない。進駐軍ジャズと呼ばれたなかで、一人一人は、魅力もあり、ご苦労もされた方々が多いとは思うが、物まねから入って、本物らしくやるのがかっこいいで終わってるから、今の時代にはもう通用しないんだ。自分をはじめとして、その人の中からにじみでてきたものを人は聴きたいんじゃないかな。ただ受けねらいで、意識で固めたものなんか人は見抜く。第一そんな人に媚びたものは、エンターティメントでもなんでもない、ただ迎合してるってだけ、勝負できるものがないからやってるにすぎない。またそこにのってくるお客もたいした客じゃない。バブルみたいなもんで、すぐ消えるし、虚しくなっちゃうんだ。だから、やる側の人間はもっともっと磨かないとと思う。お客さんが聞いた事ないことでも、こういうのはいかがですかと提供して、聴く側も反応して、文化って成長するんじゃないですか?あらかじめ知ってることだけやってるんだったら、生演奏聴く事もないし、酒場だっていつまも進駐軍じゃ人は去ってくのも当然。卑下でもなんでもなく、自分たちはまだまだ未熟すぎるんだと素直に思う。
『君主論』ニコロ マキアヴェッリ著(岩波文庫)
いだきしん先生の経営者の講座の中で話が出たので、改めて目を通してみてまず感じたことは、マキアヴェリズムに対する一般的に伝わっている悪い印象がまったくなくなったところです。目的の為には手段を選ばずというフレーズが、ともすると冷徹で人間性を無視したものと言う意味で語られている文章をよく見てきたからだと思いますが、実は、人間の本質を冷静に掴み、現実を直視することで、第一線に立つ人が、困らないようにすることを語っているのだと理解できました。マキアヴェッリの生きたルネッサンス期のフィレンツェは、歴史的な大転換期で、先日塩野七生さんもテレビで言っていましたが、ルネッサンスというのは、ローマ帝国以後、1000年、キリスト教社会でやってきたが、人間は何も変わらない。変わったのはせいぜい、ローマ時代の人間同士の殺し合いの格闘の見世物を禁じたぐらいだと。それならば、ギリシア時代の原点に立ち返ってもう一度人間を見つめ直そう、ありのままに表現しようということになって、それがメディチ家の経済力とあいまって花開いたということですが、マキアヴェッリの感性というのもそんな時代の風をうけて育ったのでしょう。国の惨状に危機感をいだき、イタリア統一の志なかばで倒れたチェーザレ・ボルジアを惜しみつつ、何とか国を良くしたいという気持ちが、指導者へのメッセージとなっていったのだと思います。最終章に「あらゆる物事があなた方の偉大さのうちに集まってきた。あとは、あなた方自ら実行しなければならない。神が何から何まで手を下そうとされないのは、私たちから自由意志を、また、私たちに属する栄光の部分を、奪わないためである。」とありました。ルネッサンス以上の大転換期といえる今の時代にこそ、現実をありのままに受け止める冷静な感性と実行力が求められていると感じます。
断片的な独白(9)
政治の限界。多数決によって意思決定する議会制民主主義の限界を最近頓に感じる。結局王様を頂点としたピラミッド型の体制が何も変ってないから。現代社会は権力者がわからないように大衆をあやつっている。あたかも大衆が選挙等で政治家を選び、自分たちの利益を代表するようなしくみにはなっているが、それは建前であって、実際にはカネを動かしている勢力の利益になるように大衆は使われている。
ただ、混沌のように見える現代社会も方向としてはこれでいいのだと思う。人間一人一人、個が息づいてきている。多様化のなかで、あるグループにいる人は全部同じ色というのが崩れてきているから。ソ連が崩壊し、資本主義対共産主義というイデオロギーの対立が無意味になってきて一つの大きな枠が崩れた。今度は各地で民族紛争が起こり、それは今も続いているが、民族〜地域と細かく細かくなってきている。それをまとめる政治も本来多種多様なものを十羽一絡げ的に掬い取るという事がそもそも無理なのだと思う。大衆も顔が見え、賢くなってきた。本当はアメリカ追従なのに平和と民主主義の為にとかテロに屈するなとかしか言えない政治家の発言があまりにも薄っぺらに聞こえるのは自分だけではないだろう。党なりある立場という建前のなかに埋没してるのか、歴史的、宗教的な背景を知っていて無視しているのかはわからないが…。期待はできないが、やってもらわないとどうしようもないので。
ある人たちに言わせれば、空想の絵空事としか映らないだろうが、一人一人が良くなる事と人間全体が豊かになっていく事とがイコールにつながって生きていれば良いのだと思う。これが永遠のテーマのはずだ。これができなくて、いつも争い、ほっとくと勝手な事するので、法律や道徳で縛ってきた。なんで勝手なのかといったら、業があるからだ。それを宗教などで閉じ込め押さえ込んだりしてまた大変になる。牢屋にいるのに自由だと思って生きている人達。全てあきらめてるのに悟ったと勘違いしている人達。
なんでも分業化されている現代社会の矛盾と息苦しさ。政治は政治屋の、音楽は音楽屋の仕事と分けられている。自分の気持ちで今の日本をこうしたいんですと言い切れる政治家はいないし、出ないだろう。仮にいても今の政治のシステムのなかでは動けないから…。石原さんみたいに議員辞めた人は言えるけど。音楽ではそれまでの世界を一転させるような革命的な音楽家、天才は出ない。昔の人のやった事を、早くからよく知っているような小粒なのはよくいるけど。メディアが何ぼ膨らませてイメージ戦略やってもそれほど売れないというのは大衆もそれほど馬鹿じゃないということか。やはり本物の出現を待ってる。
断片的な独白(8)
一言でジャズといってもいろいろな捉え方かかわり方がある。まして自分は日本人でジャズの母国アメリカから見たら外国人なわけだ。確かに音楽は国境を越えるとは思うがそう単純に考えるのは日本人ぐらいだろう。現にヨーロッパのある国ではショパンは弾けないということもある。明治以来西欧崇拝がはびこり、さらに戦争に負けて、アメリカの属国に成り下がってる我が国だから、当然アメリカ最高、アメリカ大好き人間が多いのはわかる。ジャズの魅力に取り付かれた人間が、アメリカナイズされた感覚やふるまいにあこがれるのも無理もないところ。だが自分の事を考えるとジャズは大好きだが、アメリカはどうもという感じだった。ただ、もっと考えてみるとアメリカの悪いところはもちろんあるが、良いところもある。それよりも、アメリカにただかぶれて何も考えない日本人が多い事の方にに腹が立つ。かぶれてまねしても始めは良いがいつまでもそれじゃパーになっちゃうよ。だって考えてないんだもの。いい年してもろ日本人の顔かたちした人が、アメリカ気取りしてるのは、どうみても見苦しい。日本人は日本人らしくして、好きな気持ち、尊敬する気持ちは素直に表現すればいいのに。ミュージシャンだったらあこがれから始まっても良いけど、いつまでもそこにいないでちゃんと現実を見つめて、認めるべきだと思う。自分の歌を探求する旅へ一緒に行こうね。(^-^)
断片的な独白(7)
この世にウラの世界があることを感じはじめたのが、中学生の頃、ヘルマンヘッセのデミアンを読んだ頃だと思う。何か暗い、悪魔的なまだ未知な大人の世界がとても魅力的に見えた。その後、学生運動に首を突っ込むようになって、国家権力というものがどんな動きをするのか、学校の教師が、個人のときの顔と違って、教育管理者という立場にあるときどういう動きをするのか等を経験するうちに、はるか遠いところにではあるが、権力によって動いているウラの世界を実感するもその後ジャズ等という超マイナーな世界に逃げ込んで、世間やお金とはトンと無縁な世界で生きてしまった為に、現実をわからないように生きて来た。バンド社会のゆがんだ自意識、半精神病人のようなヤツにはたくさん会ったが、生々しい金と欲の世界からは、逃避的だった。ミュージシャンでも相当稼いでいたらそういウラの世界の現実もわかったかもしれないが。