Monthly Archives: 3月 2006

なんとも不思議な感じ

昨日は下落合のシャロームというお店でのライブだった。お店の方には失礼かも知れないが、30年前ぐらいのしかも地方のジャズ喫茶に旅の仕事で行ったような不思議な感覚。ママさんもとても良い方、親切で良く気が回る人。ささやかではあるが手作りの料理をふるまってくれた。ジャズが好きで、ミュージシャンにはできるだけのことをして迎えたいという気持ちがストレートに伝わってくる。若いころ旅の仕事で地方に行った時のような感覚になるのだ。お客さんは常連さんのような方達がいらしたが良い感じ、やはりどっか地方都市に来たような気持ちになる。都内の店でやっていると音を売り物にしているのにすぐ客を何人呼べとかいうわけのわからんところが多い中で、こういう所もあるんだなーといったところか。

多数決がおかしいんじゃないか?

以前からずっと感じてたんだけれど、多数決で物事を決める、あるいは決っていくということがものごごろついたころから当たり前のようにあったけれど、これがおかしいんじゃないかと思うのです。じゃ、少数派が良いというわけではないけれど。。数が力になるということで、別に正しいこととか良いことが多くの人の判断というわけではない。もう子供の頃から多くの人が何か多くの人の支持を得たものや事は正しいような良い事のような幻想に捕われている。マスメディアの言う事をそのまま信じちゃってる人がたくさんいるわけだ。民主主義の多数決が正しいという幻想。自分で考えられないと人の目が気になって、人の頭で生きる事になる。みんながやってる事は安心で自分だけ浮くのは怖い。赤信号みんなで渡れば的な主体性のない生き方になる。操作する方は人間の守りの心理を巧みに利用して数をとってしまう。政治でもメディアでも数イコール力というわけだ。音楽業界でもどこでも一緒だ。数字を取る事のための宣伝等にいささかヒステリーぎみな時代のようだ。多数の人間の判断が正しいというのが傲慢なような気がする。大昔の時代はつい野蛮だという見方をしてしまいがちだが、神様や、自然を畏れて生きている人達の方がはるかにノーマルだと思う。といって昔には戻れないし…。だけど希望がないわけではない。話を戻すと自分をよくわかった賢い人が増えていけばいいのだ。多数派有利みたいな流れに乗らない、だまされない人。今は少数派でしょうけどきっと増えていくと思う。 

スタンダードという幻想

オスカーピーターソン。いうまでもなくジャズピアノの巨匠である。先日75’のジャズフェスのライブDVDを見たが、その迫力がすごかった。ピアニスとである私にとっては映像で手の動きが見えるのでその動きに目が釘づけになった。ため息がでるような超絶技巧だった。
俗にピーターソンはジャズの大衆化に貢献した人との評価を受けている。さらに言えばここで言う大衆とはアメリカの白人大衆ということである。確かにアンダーグラウンド的でマニヤックになりやすいジャズの世界で、これだけわかりやすいというか、ポピュラリティのあるジャズはない。しかしこのポピュラリティって何なんでしょうね?ひるがえって自分のことで考えると戦後の進駐軍キャンプ時代に流行ったスタンダードと呼ばれる曲をやっていれば無難みたいな空気があるのはわかるのだが、現代のような価値観が多様な時代にあっては何がポピュラーであり何がスタンダードなのかと思う。本当はスタンダードといってもその時代のみんなの意識が作り出した幻想なのかもとも思う。よく説明を求めた時人はみんながやってるからとかみんなそういってるとか言うけれど、良く聞いてみると大した根拠もなかったりすることが多い。まして私のようにある程度長く生きてくるとあの時あんなに流行ってたり、みんなが言っていたある価値観が跡形もなく無くなっていたり、すっかり変わってしまうことが少なくない。
もう今の時代はスタンダードっていう幻想は壊れてしまっているんだよね。自分らしいことをやれば良い。そして時代を風靡したピーターソンでも時代の流れの中で消えかかっている、そんなすごい変化の時代なんだなと感じる。