Monthly Archives: 9月 2008
フレグランス
風香という娘がいる。現在1才5ヶ月、生まれた時が3280gで大きめだった。4月に生まれたので今行っている保育園でも同じ学年の子の中では一番大きい。あるお医者さんに言わせるとこの子は手が大きいからきっと大きくなるとのこと。別に大きくても小さくても健康に育てば良いのだが、私よりはでかくなって欲しくないかな、やはり…。今までこの子の事を何も書いてこなかった。はじめて笑った時とか、寝返りをうった時とか、言葉を言い始めたときとか、ハイハイ、摑まり立ちから歩行と、まめな人ならきっと写真入りで記録を残しているのだろうが…。そんなことで、少し何か書いてみようと思う。今現在は何でもまね,まね,まねの日々で意味等わからずとも誰かが何か言うとすぐおうむ返し、幼児の吸収力の凄まじさだ。名前の由来はというと私は風が好きだから。。自由でどこから来てどこへ行くのかも知らない目に見えぬ存在。そよ風に吹かれた時の清々しさとはかなさと、暴風の時の有無を言わせぬ力と。そんな風をイメージしてよく曲を作ったりしていたせいもあり、風の香りとつけたわけだが、この子の性格やいかに?優しいのと荒っぽいのが同居しているような感じだなー。誰が教えたわけでもないのに物事を早く良くわかってるなという面と言い出したら聞かない超頑固な所と、だれも教えないうちから出ている面だからやはり我々親からコピーされているのだろうと考えるよりない。皆、そうなのかもしれないが、本当に不思議なことだ。
フットプリンツ15
斎藤先生に出会ったおかげで心身共に健康を取り戻した私は音楽だけの生活やそれまでやってきた自分の音楽が本当につまらなくなってしまった。いだき講座を受講して心身の変化と共に自分の枠というか殻から脱皮したいという要求が湧いてきたためだ。そこで始めた事が昼間の営業の仕事だ。あまりあてにならない韓国製品を問屋やホームセンターに営業する仕事である。そして夜は夜でピアノの仕事という二本立てだ。今でこそライブで食えないミュージシャンが昼バイトするのは当たり前の時代だが、当時はどこもギャラが出ていたので、お金を稼ぐだけならピアノの仕事をとってくればいいわけだが、私は違う事を考えていた。バンド業界の偏った狭い世界が本当にくだらなくてうんざり…。何でも良いから今まで経験した事の無い世界に身を置いて、実績も名前も何も無いところから自分の可能性を試してみたかったのだ。まわりの人には全く理解されていなかったと思う。営業といっても世間的にはバッタ屋相手の商売だし、直接言われたことは一度もなかったが、関根は何か宗教的なものにはまってるとうわさされていたらしい。大体からして音楽自体がある意味強烈な宗教である。マイルスやコルトレーン、パーカー等々皆強烈な個性とカリスマ性を持っている。同じように本田宗一郎や松下幸之助といった偉大な経営者達もそうだし、いわゆる宗教の指導者達、政治家等もそうだ。皆魅力あるパワー溢れる人達なのだ。人がやっかいなのは、何かを信じて一途に追求し素晴らしい成果を上げる反面、信じ込むことによって他を排除しようとする心がはたらいてしまう事だ。ミュージシャン等その傾向が強いから、考えが狭くなりがちだったり、感じ方が違う人を攻撃したり、そうしないまでも自分のことばっかりで人に無関心だったりする。話は飛ぶが今もやむ事がない中東の戦火も元は宗教的な対立である。元来平和を訴えているはずの宗教がなぜ。。子供でもおかしいと思う事をいい大人が延々とやめない。まあそう言う自分も頑固なミュージシャン気質を持つ一人なわけで、そんな自分から抜け出したくなったわけだ。外野でわあわあ騒いでいるやつはいつもいるもので、中でやっている人の気持ちはわかりっこないから言わせておけばいいのだが、1987年頃の私はそんな挑戦を始めていた。その後のことは「いだきとの出会い」で触れているので書かないが、いろいろな貴重な経験をさせて頂いた。そんな経験の全てが現在の私の糧になっていることはいうまでもない。
フットプリンツ14
1984年頃の私は公私共に煮詰まっていたと思う。薬物中毒の生活も長くなり感性も硬直化し、また音楽の仕事ではある熟達した部分はあるものの感動が無くなり、自分の枠をすぐ感じてしまう、ようするにマンネリ化というやつだ。そんな色のない世界に生きていた時出会ったのがM.O.さんだった。当時同じジャズピアニストとして活躍していた。最もご当人にとってジャズピアニストとは言われたくなかったかもしれない。というのもジャズに進んだきっかけが即興演奏としてのジャズ、現代音楽や、民族音楽の延長上にあるジャズという音楽の一つの可能性という観点だったからだ。私の場合はというとジャズのアドリブの醍醐味は大いに感じていたものの、何よりジャズの持つムードが好きだった。M.Oさんの場合、黒人音楽というとむしろポップスとかソウルに魅力を感じていたようだ。そんな同じジャズピアニストでもタイプの違う二人がピアノデュオのライブを何度かした。表に出てくる音は違っていてもとても楽しくできた。自分には理解できない音使いなので面食らう事も度々で普通うまくいかないはずなのに‥‥。元にある音色やリズム感が良いなと感じていたからかもしれない。私の煮詰まってる枠を鋭く指摘してくれたりした事等、本音で語れる人なので信頼感も強かったのだ。なかなかミュージシャン同志で表面的な褒め言葉や批判ではなく感じた事をズバリ言える人はいないものだ。そのM.O.さんが後に斉藤先生を紹介してくれる事になる。
フットプリンツ13
薬物依存等あまり語りたくない部分にもふれてきたが、流れ上書き進めてみよう。1978年頃ドラマーのジョージ大塚さんがよく仕事場に遊びにきて叩いてくれた。今までやったどのどラマーにもないスピード感が凄かった。一緒にやっていると自分がふわっと浮いているようでこういうリズムの出せる人は誰もいない。きびしいので有名な人だったがそれだけのことはある魅力を感じたものだった。そのジョージさんからバンドに誘われた時はようしっ、と思ったわけだ。何度も遊びに来て私をテストしていたらしい。ジョージさんのバンドは、渡辺貞夫さんや日野皓正さんのバンドと共に当時の日本を代表する有名バンドだ。以前にも書いた市川秀男さんや大徳俊幸さんといった名ピアニストもかつてこのバンドにいて、ピットイン等にライブを見に行っていたものだった。そんなあこがれのバンドへの誘いなのだから、大変とは思いながらも二つ返事で引き受けた。ところがその当時のジョージさんのバンドのピアニストに求められていたことは、シンセサイザーを駆使してウエザーリポートとはいわないまでも、伝統的なジャズ(4ビートジャズ)とは違うサウンドを求めていた。こういうバンドにいたおかげで後にずいぶん電気楽器にも触れることになった私だが、頑固で不器用な人間にとっては苦手なことが多く、自分にとっては手かせ足かせをされたような状態でストレスの日々だった。そこにジョージさんの罵声がステージ中でもかまわず飛んでくるわけだからたまったものではない(笑)スリクいっちゃえで悪循環この上ない。2年ぐらいしてやっとわかってきたことがあった。それまでの私はジャズという音楽の中でもほんのある一部のことを集中して追いかけて来た。ジョージさんは長年の豊富な経験からジャズというフィールドの中ではあるが、トータルで広く一般的な音楽のやり方みたいなことを伝えていたのだと思う。形式的な従来のジャズの手法からより自由なあるいは自然な歌(アドリブのソロのこと)、音楽の物語性というかストーリーの起承転結みたいなことだ。その後当然といえば当然なのだが、現実は人間が作ったフィクションの世界、起承転結のようには決して動いていないし、フィクションの世界というか、あっちの世界にとられるのではない、現実そのもののNow & Here の音楽というか音表現ってできないのかとか考えたり、音楽一つとってもヨーロッパ、アメリカを中心に発達したジャズやロックやクラシック音楽が音楽あるいは音の表現の全てではないと気がつくまでにずいぶん時間がかかった。そんな狭い自分から抜け出したと思ったらまたある別な観念に捕われていく。そういう意味では良いプロセスを経験をさせて頂いた。
フットプリンツ12
ドラマーの呉在秀(オージェス)という人がいた。いたというのは、彼は40代後半の若さで癌に倒れたからだ。在日韓国の人で出会った頃は倉田在秀と名乗っていた。創氏改名で苗字や名前の読み方を変えていたわけだ。大陸的と言えば月並みな表現だが、リズムがダイナミックで太い。わーっとおおらかにスウィングして、尚かつテンション高く直線的に盛り上がる感じで、良いドラムだなあと思っていたらわりと一緒にやる機会が増えた。ジェスも私のことを気に入って一緒にやろうということになった。それはそれで良かったのだが、彼はいろいろな薬物に手を出していた。そのひょうひょうとした性格からドラッグ常習者にありがちな暗さが無い。そんなことを理由にするつもりもないがつい興味本位から手を出してしまった。一発目でハイになったのでこれはいけるとなってしまったわけだ。後に他の人から聞くとあわなくて気分が悪くなった人もいるのだから何であんなにピッタリハマってしまったのだろうと思う。気づいたら中毒になっていてそれがないと鬱状態になり人前に出るのも演奏するのも怖いという状態になった。そういう状態は斉藤先生に出会って抜け出すまで8年程続いた。一口に薬物中毒と言ってもいろいろなケースがある。なかには何十年も生きて仕事もこなしている人もいるが、やはり大変な重荷を背負って生きることになると思う。そもそも一線で活躍するようなミュージシャンは感性も体力も人一倍あるエネルギッシュな人が多いわけだが、それが酒やドラッグで30代40代で命を落とすこともざらでないのだから恐ろしい話だ。1940年代50年代に活躍したアメリカのビッグなジャズメンはほとんどヘロインに犯されていたが、並外れたパワーの持ち主が30代40代で亡くなっている。それほどやっていない人はわりと長生きしているわけだから、まともにいっていれば長く音楽活動を出来たものを惜しいと思う。
フットプリンツ11
オーディオラボレコードからトリオのリーダーアルバムを出した1978年は自分にとってある頂点というか転機だったような気がする。河上修さんの会社へのプッシュで実現したレコーディングだったので当然ラッキーといえばラッキーなのだが、今振り返るとどこででもあるいは誰とでも表現できるような確信というか自信がまだ足りなかったように思う。メンバーも山木秀夫さんのドラムスと河上修さんのベースという腕達者な人達なので申し分無く、演奏も当時の自分としてはまあまあの出来で、しかもわりとよく売れたらしい。というのも後にこのレコードはCD化されたからだ。ただ同じ年にレコーディングしたストロードロードというレコードは、決して名前があるわけではないが気心しれたメンバーとのトリオでミスもあるものののびのびと演奏している。中央大のジャズ研究会にいて知り合った中山さんと今回の私の29年ぶりのアルバムの録音をして頂いた猪狩さんによって制作された超レアなレコードだ。当時の私の演奏を気に入って良い記録を残したいという気持ちで制作したそうだ。私自身もその時演奏したい曲を何のてらいも無く好きに演奏していただけで、無心でやっていた。そんな一枚とその2年前に吉祥寺サムタイムのハコ(毎日レギュラーで演奏すること)に入るきっかけを作ってくれた渡辺典保さんのアルトサックスと佐々木秀人さんのトランペットをフロントにしたクインテットのレコードが、去年CD化され発売された。なんとビックリしたことにトリオのレコードはレコードマニアのと言われる人達の間で信じられないような高値で取引されていたという。もちろん限定100枚とか50枚とかいう希少盤だからとうこともあるにはあるが。。話のついでに再発に至った裏話を少々。10年程前だったと思う。見ず知らずの石井さんという方から手紙を頂いた。1976年と1978年にリリースされたスマイル盤のレコードを分けて欲しいとのこと。ただ当時私は音楽活動をやめており、活動する予定もないのでレコードを販売する気持ちもなく、丁重にお断りした。ところがその後何度となくお手紙を頂いて、どうしても譲って欲しいとのこと。そんなにおっしゃて頂けるならということで差し上げることになった。そんなことがあってから10年余、その石井さんは脱サラをし、大阪にある澤野工房というジャズレーベルの副社長をされていた。そしていつか私のレコードをCD化して再発しようと考えていたそうだ。マニアの執念である。どうしても欲しいレコードがマーケットで手に入らないと、海外のプレーヤー宅に手紙を書いてまでして手に入れるとのこと。後日再会したら、あの時(レコードを差し上げた時)もう弾かないって言ったじゃないですかと笑いながらおっしゃていた。人生どうなるかわからないものである。