Monthly Archives: 12月 2007

フットプリンツ8

そんなこんなで、1974年頃からプロとしてのキャリアをスタートさせた私だったが、ここで当時のライブハウスの状況を話してみよう。新宿ではピットイン、タロー、渋谷では86、銀座ではジャンク、スウィング、六本木はミスティ、バードランド、サテンドール、アルフィー、ボディアンドソウル、バランタイン、ミンゴスムジコ、高円寺のアズスーンアズ、吉祥寺ではサムタイム、赤いからす、横浜ではバーバーバー、よいどれ伯爵、ストーク、ウィンドジャマー等々、今も続いている店、消えてしまった店と様々だが、今よりは盛んだったように思う。まあ、当時と今では遊びの形態も変わって来た。当然DVDも無い時代、生演奏の魅力も今以上だったのだろう。先程今より盛んと書いたが、むしろみんなのんびりしていたというか、余裕があった。スゴい人が出てるというので通った新宿のタローも客が1人2人とうこともざらにあった。それでもやる方も聴く方も全然おかまいなしにやっていたように思う。聴きたくてもお金がないとき、昔のピットインのステージの裏手に行くと音が少し漏れてくる。それを外で立聴きしていたこともあった。そんなあこがれのピットインの舞台に上がった時は本当に緊張した。ライブは朝の部、昼の部、夜の部と三部制。朝からジャズかいと思わなくもないが、一種のジャズ道場的な雰囲気を持っていた。私の出ていた朝の部は11時頃から音を出していたように思う。菊池昭紀、佐々木秀人さんの双頭コンボでChick CoreaのLitha等を演奏したが、ダブルテンポになったり元のテンポに戻ったりとやっているうちによれそうになり冷や汗かいたり、まあいろんなことがあった。当時の日本のジャズライブシーンはコルトレーンバンドの影響が主流だったせいか、ピアニストもマッコイタイナーを追いかけている人が多かった。例の左手でドーンジャーンジャーンとやる一発ものというワンコードの中で自由にインプロヴァイズするスタイルだ。私もジャズを聴き始めた頃はコルトレーンバンドの後期から入ったのでマッコイのピアノも良く聴き好きだったが、ライブを始めた頃はハービーハンコックにはまっていたので、そんスタイルのピアニストを聴きにライブハウスに通ったものだった。当時のジョージ大塚さんのバンドのピアニストだった大徳俊幸さん、初代ジョージ大塚トリオのピアニスト、市川秀男さん、また日野皓正さんのバンドの益田幹夫さんはあこがれのピアニストだった。

フットプリンツ7

キャバレーのハコの仕事(毎日レギュラーで同じ店に出演すること)は結局3,4ヶ月でやめたと思う。ぽつんぽつんと入ってくる仕事をこなしながらやっていた頃、サックスの渡辺典保さんの紹介で今度吉祥寺に新しく店がオープンするので、ハコでやってほしいという話がくる。先方のオーナーがいちおうオーディションしたいから中央大のジャズ研の部室に来てくれとのこと。そこでお会いしたのがサムタイムのオーナー故野口伊織氏であった。オーディションでOKをもらい、ピアノ、ベース、ギターで毎日入ってくれとのこと。今や老舗のライブハウスサムタイムもスタート時はハコの店だったのです。野口氏が当時話していたことには、ニューヨークのジャズの店を回って感じたのは、以外にピアノ、ベースのデュオの店が多かった。あまりジャズ色を出し過ぎないためにドラムレスにして、ジャズ好きの人以外のお客さんにも来て頂けるような店にしたいとのこと。当時の自分はオーソドックスにドラムスが入ったトリオやカルテットをやりたかったので、その点は不満だったのを覚えている。オープンして一年ぐらいした頃か、お店でケニードリューとペテルセンのデュオを呼んだ。それまでマッコイタイナーグループ等のコンサートは何度か行ったがピアノのすぐ近くで鍵盤を走る指を見ながらのジャズライブは初めてで興奮したものだ。その後ハンクジョーンズのソロピアノも鍵盤のすぐ後ろで見ていたので、あの細長い指でテンスのスウィングベースを引くのを目の当たりにして、これまた強烈な印象を覚えた。オープニングはヤードバードスーツだった。私はまったく知らなかったマリアンマックパートランドという女流ピアニストが遊びに来ていて一曲ヒアーズザットレイ二ーデイを弾き、とても素晴らしかった。その後もレイブライアントのソロ、デュークジョーダンとロイへインズ等、当時バリバリだった(もっともロイヘインズは今もバリバリだが)ジャズのスター達が結構来ていて、彼らを間近に聴けたということは大変ラッキーだったと思う。