Monthly Archives: 5月 2007

子供の頃の話をしてみよう5

高校に行くようになって思い出すのが1970年の大阪万博でのセルジオメンデスとブラジル’66のステージである。当時はすでに相当音楽のとりこになっていたので、万博のパビリオンめぐり等にはまったく興味がなく、ただセルメンが見れるということでわくわくしていた。ポップなバンドの生を見るのは初めての経験だ。ただ当時の第一印象としては彼らはレコードの方がうまくて良いと感じてしまったことだ。私は音楽はレコードから入ってなれ親しんでしまって、生の良さがしばらくわからなかった。歌が思ったよりうまくないなーとか音のバランスが良くないとかが気になったことを覚えている。そういう面が例えあってもライブの良さってあると思うがまだそういうことがわからなかったのだ。それからしばらくして、ロックそしてほんのちょっとジャズへと移っていく。ツェッぺリンやクリームでギターにしびれまくっていたのになぜギターをやらなかったのかと思うが、引っ込み思案の性格ややる気の無いかったるい状態だったのだからだろうか?ドアーズというグループに惹かれた。他のバンドとちょっと違ったコンセプトだった。まずギターが前面的に活躍しない。オルガンのルイスマンザレックという人がなかなかの才人のようで、ジャズのテイストが混ざっている。そしてカリスマ的なヴォーカリストのジムモリソンがどこか品があるようで、しかもロックシンガーにありがちなばか高い声でなく自分でも歌えるようなレンジの声なのだ。そしてジャズ!中三のとき深夜放送でナベサダとジャズという番組があったが、サックスのアドリブの良さというのがさっぱりわからなくて、たいくつですぐ寝てしまったか他の局に変えてしまったくらいなので、はじめはどこが面白いのか思っていたが、クラスメイトからもらったロックのレコードの中にWellow Weep For Me というWes Montogomeryのレコードがあった。ロックとは違った冷めたというかクールなサウンドと4ビートのリズムがかっこいいなあとはじめて感じた。あまりよくわかる、ピンとくるというのではないのにその雰囲気、空気感に魅了されてしまったんでしょうね。

子供の頃の話をしてみよう4

映画音楽からポップスの面白さに目覚めた私は、小遣いをすべてドーナツ版につぎ込むようになる。ビートルズのHello Goodbye,Your Mother Should Knowにしびれたのもこの頃か。小六の頃スキーに行ってその時どこかでかかっていたシーカーズのジョージガールなんかも思い出深い曲だ。最初は洋物ばかりだったのだが、当時はグループサウンズ大盛況の頃、学校へ行けばやれタイガースだのブルーコメッツだのと話題は尽きない。感覚的にアンチに走りがちだったので多数の人がタイガースなら自分はテンプターズさらにゴールデンカップスからモップスとマニアックな少数派へと流れていく。といってもラジオの深夜放送で流れる多数の人が聴いている和製ポップスでの話だ。フォーククルセダーズの「悲しくてやりきれない」とかシューベルツの「風」とかもよく聴いた。中3になる頃「卒業」という映画を見てサイモンとガーファンクルと出会う。あのハイトーンの美しいハーモニーは、白人のポピュラーミュージックの伝統的な流れの中で生まれてきたのだろうが、衝撃的ではまった。そしてジャズへのイントロダクションというべきセルジオメンデスとブラジル66’と出会う。今思へばセルメンがジャズ的なサウンド、大人の香りというかある種あこがれていた世界の扉を開いてくれたような気がする。

子供の頃の話をしてみよう3

習っていたピアノをやめて家にあったクラシックや映画音楽のレコードをただ聴いていただけだったのが、自分の小遣いでレコードを買うようになったのが確か中一の頃だ。始めて買ったドーナツ盤がビージーズのマサチューセッツ。当時大変はやった牧歌的な曲。B面がホリデイという曲でパイプオルガンのようなオルガンが全面フューチャーされていてどこか教会音楽のような神聖な雰囲気の曲。ラストのピーピピピーピーピーというリフレインが印象的な曲だった。この頃からだんだん音楽の世界にのめりこんでいく。小学校の頃は消極的でおとなしい子ながらも友達とフツーに遊んでいた。小四の頃から油絵クラブに所属し風景画を書くのが得意だった。確か何かの賞を取ってその作品が校長室の近くの廊下に貼り出されたこともあった。飯田橋駅に電車が止まっている絵だったと思う。風景や果物や動物を書くのは得意だったが人が嫌いなのか人物を描くことはなかった。私の風景画には人は登場しない。漫画、コミックが大好きだった私は小六の頃、一つ年下の従兄弟と漫画雑誌を作った。野球漫画なのでコミックのときは人はたくさん登場してくる。雑誌といってもわら半紙をホチキスで留めた程度の物だったと思うが。。足を骨折して入院していた小学校のクラスメイトにお見舞いの時差し上げたりしたが、もらったクラスメイトは本当に喜んでいたのだろうか?疑問である。中学に入ったとたん絵に行き詰まりを感じ描けなくなってしまった。学校も面白くなく虚しさで自分の感覚がしぼんでいったように今は思う。その虚しさを唯一癒してくれたのが音楽だった。

子供の頃の話をしてみよう2

音楽との出会いは、なんとなくだった。母は6才からピアノを習わせてくれたが、残念ながら面白いと思ったことはほとんどなかった。子供の頃からやれバイオリンやりたいピアノ習いたいと親にねだる子もいるのに、あまりやる気のない子だった。普通の遊び、がん箱とか(知らない人も多いだろうけどゴムボールを手で打つ卓球みたいな遊び)野球とかは好きだったが。それどころか小学校4年の頃にはピアノ教室に行くことがストレスになりチック症という神経症になってしまった。母もやむなくあきらめ、ピアノとは一生縁のないものと思われた。ただ、なんとなくとはいえ親父が聞くクラシックのレコードが部屋に流れると自然と覚えたりしていた。小3ぐらいには日本の五音階調の簡単な曲を作ったりもした。ベートーベンの田園シンフォニーのタッタラタッタ、タッタラタッタというフレーズが何回繰り返されるかとか、魔法使いの弟子という曲で魔法か何かで水が溢れ出す情景がリアルで面白かったとか、そんな感じだ。そしてはじめてピンときて良いなあと思った音楽は映画の音楽だった。母はオードリーヘップバーンが好きで、「いつも二人で」なんて映画を一緒に見に行ったりしたが、オードリーの代表作である「シャレード」が好きだった。ぺぺハラミジョという人のオーケストラでラテンタッチのアレンジ。メロディが物悲しく単調なのにバックが賑々しいアレンジでおもしろいと思った。他に鉄道員とか夜霧のしのび会いとかブーベの恋人とかアコギでメロをとる哀愁タッチの曲。イタリア人情物である。それと有名なダバダバダ、ダバダバダの男と女、フランシスレイの「雨の訪問者」「白い恋人達」等のフランス物だ。

子供の頃の話をしてみよう

私は産まれてから21日目に母方の祖母のもとに預けられた。母は子供が嫌いな父にせがんでつくった子供にしては簡単に手放したものだ。まあ学校の教師でもあり性格的にも子育てをするより知識を得ることに没頭することが好きな人なので、当然のなりゆきなのだが。。私もそういう境遇を寂しがったり、不満を持った覚えはない。むしろ祖母のゆきさんを好きだったので良かったのだ。大宮市大門町にあった母の実家には当時母の兄弟である私の叔父や叔母が同居していたこともあり、私のことを年の離れた末っ子のようにかわいがってくれた。祖父は日本橋の証券会社に勤めるサラリーマン。小学校を出ただけで丁稚奉公にだされるが、独学でそうとうやった人らしい。子供は好きだったように思えた。廊下でだっこされていたことを思い出すが、そのときの干してあった祖父のタオルの匂いが少しいやだったことと、酒が好きで愛想良くあやしに来た時ぷーんと日本酒の甘い匂いがしてきてまいったという記憶がある。二階には徳川家康の全集がずらっと並んでいたのを覚えている。毎朝6時に起きてラジオ体操して、きれい好きな人だった。その後私が東京で拾ってきた犬を飼うことになった時毛が落ちるから嫌だと言われ、飼ってはもらったもののちょっと反発も覚えたことを思い出す。色白のちょっと良い男。ものを言う人ではなかったが、父がいないと思っていた自分にとっては影の薄い父親と言ったところか。おそらく日本人の恥を知っていた人だと思う。ゆきさんは足利の機織屋のお嬢さんで使用人を何人もやとっていたような家で育った人らしい。めんどくさがりやで、あまり料理とかしない人のようだ。現に私が子供の頃食べたものの記憶は鮭やタラコのお茶漬けぐらいしかないもの。でも人間というものは何ができるとか、何をしてくれるとかではないが好きな人というのは当然いるので、私はこのおばあちゃんとは気があった。逆だったのは父方の祖母だった。この人はかつてニューヨークに住んだこともある人で、未亡人になってからは横浜本牧にある米軍キャンプの寮の寮母さんをやっていた。食べることが好きでお料理が好きで、12月には七面鳥の詰め物なんか作ってくれた。クッキーもよく焼いては持ってきてくれた。このおばあちゃんは多分とても気遣いのある人で、愛想もある人なのだが、子供の頃の私は大人の作った愛想というものが嫌いで、反発してしまった。しかし決定的だったのはその後東京で飼った犬をえさでつって手名付けてしまい、何か物でつって心を取ったみたいに思えて腹がたったのだった。犬だからえさについていくのは当たり前と言えばあたりまえなのだが。。今となれば苦笑してしまう。