Monthly Archives: 6月 2007

フットプリンツ2

高校に入ったとたんますますやる気がなくなった私は、入学した前年に高校生のブンザイで学園紛争のまねごとをドンパチやっていた先輩達と意気投合するようになり、だんだん学校をさぼりはじめる。高校は赤坂見附ににあって、坂を上がった所に正門があるのだが、その坂を上がるのがだんだんおっくうになり、すぐ近くの赤坂プラザの地下にあるスナックに(なんと午前中から店を開けてランチをやっているやる気のあるスナック)通うようになる。そして、そこで働いていた元学生運動の闘士?、ドンパチ高校生のマドンナ的存在だったお姉様にジャズの知識を教えてもらう。赤坂から近いせいもありレコードジャズ喫茶の四谷イーグルさんにはよくお世話になってました。あとお茶の水のナルのはす向かいのラーメン屋の脇を入った所にあったジャズ喫茶、名前はなんと言ったかなあ。漫画がたくさん置いてあった。昔のミュージシャンはよくやっていたという話を聞くが、コーヒーかコーラ1杯で2時間、3時間ねばってレコード聴きまくり。コルトレーンから始まってチャーリーパーカー、バドパウエル、セロニアスモンク、ブラウンローチ、エリックドルフィー、ロリンズ、マイルス、ウエスモンゴメリーetc,ハードロックから入ったせいか、友人の影響もあってか、最初はコルトレーンのアバンギャルドに浸っていた。音楽というよりもう直接叫んでるっていうのがそのときの自分にぴったりだった。でもそうこうするうちに、4ビートのリズムが好きになり、抑制が利く所はきいて美しくかっこ良く歌い上げるいわゆるモダンジャズにのめり込む。パーカー、パウエル、ブラウンローチ、ロリンズ等だ。モンクは絶対普通にはやらない変わったこと大好きな根性と、あの独特の間(特にソロの)が好きだった。そんなこんなで学校からはますます遠ざかり、とうとう2年の終わりにやめることになる。ドンパチやっていたやつも卒業が近づき大学受験が近づくと将来のことを考えるから、みんなおとなしくなって消えていったしまう。ま、高校生はその方が良い。私のようなのはドンパチ世代からは一年遅れて来たロストエイジなのに、ロックやジャズの反社会的な空気にどっぷりつかり学校もやめ、レールからは落ちこぼれるところから何かをやらなければいけなくなった。前記のスナックのお姉様も仕事の合間にエレクトーンをかじり始めたという話を聞いたり、高校脱落組の先輩達がジャズバンドを組むらしいという話を聞き、彼らを紹介してもらった。行くと楽器で空いているポジションはピアノかバイブだという。私はピアノはもうたくさんと思っていたのでバイブかと思ったが、先輩が鉄琴と言ったので一気に冷めた。ちょうどエリックドルフィのレコードの中で弾いているマルウォルドロンのピアノのポーンという音が自分に響いて来たので、もう一度やってみるかという気になったのだ。

フットプリンツ番外

最近読んで良かったウエインショーター伝に書いてあったが「現在の音楽の世界ではもはやアーティストの個性などどうでもよかった」と。また、ザヴィヌルのことを書いた本にも、1980年以降アーティストの力でどうこうする時代は終わり、もはや音楽とは会社のイメージ戦略の道具に過ぎなくなったと。CDならCDを売るためにあるイメージを作るそのシナリオの道具としてアーティストなるものが使われているという状態。我々ミュージシャンからすればとても残念なことだが、実際現実はそのとうりになっている。先端まで行っている人だからこそ肌で感じるはずだ。実際優れたミュージシャン程権力の道具にされてきた歴史がある。ビートルズやマイルスの音楽が反体制の若者を取り込み、大量の購買層を取り込むための戦略の道具にされているとは、本人達にどこまで自覚があったのだろうか?結局は支配層のコントロール戦略の道具にされるというおなじみのパターンにより拍車がかかっているという状況だ。60年代ぐらいまではアートとビジネスの葛藤という対立構造だったのが、ソ連が崩壊し二極対立が無くなった90年代には権力にすっかり取り込まれていると言った様相を呈している。実際はベートーベンや、ワーグナーの時代からということはもっとずっと以前からこのような歴史を繰り返して来たのだと思う。ただ感じることは、以前は良い意味でも悪い意味でも余裕があったように思う。ミュージシャン達のあり方、その活動の場ライブハウスの状況とか、お客さんの遊び方等、要するに社会の状況だ。私が音楽の世界から離れて13年。戻ってみたらずいぶんと状況が変わったものだ。まず感じたのは、全体に余裕が無いということ。今の日本、どこの分野にも当てはまると思うが、やる人は増えたがやる場所が無いこと。傲慢と思われてもあえて言わせてもらえばみな適当にうまくなったがその分特長も無くなったこと。画一化というやつだ。技術は細分化されて緻密にはなっているが、どかんと新しいものが出てこないからよく聴くと誰かのそっくりさんだったりするので、一瞬スゴいなと思ってもすぐ底が見えてしまう。さらに同じように上手い人がたくさんいるので、あとはルックスだとかまだ十代だとかいう話題でしかひっぱれない。人の内面に響いて感動が人を元気にしたりすると考えられて来た音楽が、ある時から行き詰まり、ますます表面的に物的になっていると言える。(かつてはジャズも、そして私の物心ついた時にはロックが物質文明とそれを操る権力への反抗と考えられていた時代はとっくに終わり、ロックも若者をコントロールする権力の道具となる)音楽業界自体が硬直化してのぞみがもてないなら、新しいムーブメントが必要に迫られていると思う。ショーターも本で言っていたが、やっぱり人間がまずいて次に音楽があるって、理屈じゃわかっていても本当にそうなんだと実感する。良い意味で海千山千の人間からそういう音が出てくるし、管理されたサラリーマンのような人からもまたそういう音が出てくる。そうなるとショーターのような人はアメリカでももう出てこないだろうと思う。ジャズ自体がほとんど無くなったというアメリカの社会もまた変わっているからだ。この金や物を中心とした世界がますます行き詰まって持つ者と持たざる者の差がますます二極化する現代、本当に面白いこと、夢があることを見つけるのはむずかしいように見えるが、そこをなんとかしなくっちゃいけないんだよな。

フットプリンツ

子供の頃の話をしてみようで高校生まで来てしまったので、ここらでタイトル変えます。最近ウエイン・ショーターの評伝というのを読んでとても良かったのでそのタイトルにちなんでフットプリンツとしてみました。
さて、高校に入るやいなや、中三ぐらいから始まっていた無気力状態がますます激しくなり。また、ますますロックからジャズへと聴きあさっていく。中三の時読んだヘルマンヘッセのデミアンに影響され、何か自分達には知らされていない裏の世界、暗い世界が表裏一体となって存在し、それを気づかない人には何を言ってもわからないようなそんな世界に惹かれる。何なんでしょうね?今思えばそれも青年期特有の反抗心、暗い何かにはまっていっただけのようにも感じるが、かといっていわゆる表面的な社会の倫理というか通念みたいなものが正しいわけでもなんでもなく、また先行きに希望を持たせるものでもないと感じたことは決して間違っていたわけではなかったと思う。ただ毎日学校に行って与えられた勉強をこなして、友達と遊んだりテレビの話したりしている生活とロックやジャズの中で人が泣いたり叫んだりする様とのギャップはそうとうかけ離れている。生きていて何かそぐわない、気持ち悪い、あるいは悲しい、苦しいとどこか感じるから、そういうことを表現している音楽に惹かれるわけだ。感じない人は感じない。感じてしまった人間ははまっていくよりない。音楽で自分は救われたし、同時に囚われの身にもなったわけだ。決してマイナスにいうつもりでもなんでもなく、音楽に魅せられる人ってそうなんだと思う。同じように絵画とか文学等の芸術に魅入られる人ってきっとそうではないかな。