断片的な独白(14)

同じ頃にロイへインズの新譜とジョーザビヌルの本に出会った。こう言うと人によっては抵抗があるだろうが、二人とも古いタイプの英雄だ。ロイはただでさえハードな運動量とパワーを必要とするドラムスを炸裂せんばかりのパワーと繊細さでたたきまくっている。基本的なことは若い頃とほとんど変わっていないが、迷いがなく、たたききっているという点ではむしろ以前より進化しているようだ。久々に感動した。一方ザビヌルは少年のころからジャズが好きで好きでたまらなく、なんとか黒人のジャズを自分のものにすることを必死に追求していたようだ。偏執狂といっても良いくらい一直線でわき目もふらず突き進むという人に見えた。ピュアで行動的、戦闘的な人だ。このような時代を引っ張ってきた英雄タイプの人は今はでない。どんな人なのだろう?何か共通項として究極のエゴイストなのだと思う。本人も言っているが人に合わせて適当にやってる奴とは違うと。だからまわりと衝突することを恐れない。つねに戦いの日々だ。以前ミュージシャンやってた頃よく考えたが良い人は成功しないということ。成功していく人は我が強くて人を倒してまでも自分に固執する。傷つけてることすら意識せずに。こう言う人の宿命は人を倒して成功して、いつかまた倒されていくということだ。自分と周りとの関係はは矛盾をかかえている。やがてあがった運も落ちていく。最初から矛盾を孕んでいる以上必ずそうなる。究極のエゴイストの時代は終わっている。大したものだということを素直に感動しつつもこういう人達の時代の終焉を感じた。

断片的な独白(13)

知識、技術の右肩上がりの進歩は1980年まで。後は細かくなっていっているだけ。音楽の現場にいて感じることだ。今はじめて感じたことではなく、20年ぐらい前から感じていたけれど今ますますその感が強い。昔は知識や技術は幼稚だけれど身体能力や直感、生命力は強かったように感じる。今は、知識や技術の水準は高くなっているが、中身が幼稚になってる。中身が無いと言っても良い。最初は技術が高いからすごいと思うがそのうちなんだこりゃみたいにがっかりすることが多い。内面的危機ということだ。
はじめに良い状態がないと教育によって培われた技術や知識が却って人を駄目にしているようなことを感じる。お金もそうだけれど、技術や知識があることで、何かものをわかったような、できてるような幻想に捕らわれがちになるもの。これがワナだ。確かに教育のおかげで、沢山の人々にものをやれるチャンスができたり、物事を考えたりする基礎ができるからなくてはならないことなのは当然なんだけれど、やりようで良くも悪くもなるということだ。時系列で考えるだけでなく、先進国と途上国ということで考えてもわかると思う。アフリカの人が高度な身体能力や直感にすぐれていたり、見えないものと交流したりすることは、むろん個人差があることだが、一般に先進国といわれる地域の人達より優れていると言っても良いと思う。逆に教育が低いために病気や、貧困、戦争などで落す命も多い。もちろんこれも先進国、持つ国が持たざる国から搾取する構造から来ているわけだが…。
しかし持たざるところも。進歩、発展ということで先進国の方向で行きたいわけだから、今の中国じゃないけれど、結局欲望の再生産という搾取、収奪の路線には変わりは無い。誤解なきように。自由な競争。まっとうな向上心。発展成長の欲を否定しているわけではない。それが無かったら、人間じゃないしね。
内面が豊かで、それに基づいた知識、技術が高められていくことが求められているのだと思う。
自分自身の構造改革やってますか?着々としこしことやってます。頑固、頑迷な人間だからやりたいことは早く納得いくまでやらないと次に行けないのだ。旧態然としたことやってる人はほんと旧態然のまま動かない。だめだだめだとわかっていても動かないのが日本人だから、今のままだと全員玉砕だよね。といっても方法論でやれることはみんなあがきながらもやってるわけだから、そんなものでは何の足しにもなるはずない。いかに自分らしくやれるかだ。世の中変わるといっても今日でお終い、ハイ明日からこうねみたいに変わるもんじゃない。じりじりと二極分化が起こっていて気がついたらすっかり状況も変わってるということだと思う。つくりものでどっかの手先にコントロールされて終わるのか、一人一人が自分の本音で生きはじめるのか。人々はこっちを求めていると思う。

『もっとウソを』竹内久美子著(文芸春秋)

科学とはウソをつくことである。という章もあるように、目からうろこの面白い本でした。なおかつ、大変本質的なことを語っている。すなわち、科学とは本来なぜ、なぜと問うていくことであり、今までと違う発想を次々生み出していくことであると、そして、それ自体が大変おもしろいことであり、イギリスではある時まで、おもしろい発想の論文が認められて、それは必ずしも正しいことではなかったというのです。考えてみれば、この大自然、大宇宙のことで、人間がわかっていることの方がほんのわずかで、世界は不思議に満ちているわけで、むしろ問題なのは、日本の科学の世界がこういうのが科学的であるという固定的なものの見方にがんじがらめになって、ドグマ化していることだ言うのです。科学を信仰の対象のように崇め奉って、そこに当てはまらないことを、排除してしまうような動きがあるようだ。残念ながら日本の社会は科学に限らず、知らないこと、今までに無かったこと等に対すると排除してしまう傾向を感じる。自分の経験でも、音楽家の世界いわゆる業界の世界等その典型と言っても良いと思います。自分がある時期一生懸命勉強した知識、経験に逆にはまってしまって自由じゃないという皮肉な結果になっている。(本来音楽とは自由なもので、これが音楽と言うワク決めはないはずなのに)突出したエキスパートはおそらく柔軟だと思うが、中間的な、専門家、職人、学校の先生等いわゆるプロと言われる人達が一番頭が固くなってしまっている。赤ちゃんや子供達が次々に興味を持って、遊んでいるような、素直な心で生きることが、いつの時代にも、生き生きと元気に生き抜く秘訣なのではないでしょうか。

『芸妓峰子の花いくさ-ほんまの恋はいっぺんどす-』岩崎峰子著(講談社)

5歳で祇園の置屋に入り、15歳で舞妓になり、連続6年間、売り上げナンバーワンの伝説的芸妓の手記。祇園甲部という花柳界での修練、仕事、人間関係のきびしさもさることながら、この人についてまわる過酷な運命と、それを受け入れ、くじけそうになりながらも決して負けない精神力、どんなときでも父親から受け継いだであろう誇りを失わない強さにおそれいりました。仕事に対するプロとしての姿勢、人の事をわかる感性、感覚の良さは、生まれもってのものに加えて、常に考え、工夫している。また、これからの伝統芸能を次代にきちんと残していくことや全体の事、先の事を常に考えている。「自己保身ばかり考えて、自分だけ暮らせればいいという考え方では、これからの時代は乗り切っていけません。中略、慣れることが日常茶飯事になり、自分がしなくても誰かがしてくれると思うことは依存です。誰かがでは無く、自分自身が自立しなければなんの意味もないのです。何度も繰り返してきたように、祇園甲部の存在意義は、あくまでも女性の自立をめざしたものだったはずです。」(本文より)既婚者で、子供もいる勝新太郎との恋も「自分の頭で考えることをすべてやめ、そのときの利夫さん(勝新)に対する気持ちを素直に打ち明けました」と、自分の気持ちに素直に生きる道を選んだ。80年に芸妓を引退し、その後結婚もされているのですが、現在の活動を知りたいところです。

『葉隠入門』三島由紀夫著(新潮文庫)

元禄の太平の世に、武士道の堕落を危機と捉え、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な句は、実は「良く死ぬことは良く生きることなり」という、逆説の書であり、三島が生涯の座右の書と言う有名な「葉隠」の三島流解説書、人生論。戦後日本がたどった欧米化の中で、失った魂、美の危機を早くから見通していた三島の慧眼に驚かされる。又、芸術至上主義を嫌い、文武両道という思想と行動の一致を常に考えていた作家三島の気持ちの代弁者としてこの書物に心強いものを感じていたに違いない。戦後20年の大平の社会の中で、飼い慣らされた、うわべだけの自由から、真の自由と情熱を説いた書。さらに、私自身、高校1年の頃、街頭闘争等に参加していた学生運動の心理的な面–あれに参加していた青年たちは、何か身を挺するものを探して参加したに過ぎず、必ずしもイデオロギーに支配されたり、あるいは自分で安保条約の条文を精密に研究して行動したわけではなかった。彼らは相反する自分の中の衝動、反抗と死の衝動を同時に満たそうとしたのである(本文より)–を見事に見通しているところも、三島の感性の鋭さに驚き、共感した。原書と共に現代の日本社会を憂いた三島の訴えが伝わってくる。良く死ぬこと(生きることの)の出来なくなった現代に警鐘をならす名著だと思います。

断片的な独白(12)

死ぬまでパピヨンでい続ける事(ちょっときびしいか)。
自分達のことだけでやってるのは、所詮趣味の世界。ちっぽけな世界。その中でしか通用しないルール。社会性の無さ。経済力のなさ。力が無いという事。自分をはじめ大半の人達がこれ。社会的な地位があると金は集まってくるが、何かに使われているうちは、まだ体制の操り人形に過ぎない。人にキャッチされるということは、どっぷりハマるということ。一回でもど真ん中にハマってみないと人間のことなどわかるわけない。

断片的な独白(11)

経済的にはデフレ社会、もの、人、金が余り、溢れている。歴史、社会構造的には、2000年以上続いてる文明が根こそぎ崩れていく程の大転換期。ピラミッド型の意識構造、権力構造が崩れはじめている。誰にでもチャンスがおとずれるフラットな時代といえる反面、細かく管理、分断され画一化されていく方向とが同時に起こっている。大変化ゆえのカオス状態はまだまだ続くと思われる。現状を正確に理解し手を打っていける人が勝ち組として残る。5%程ではないか?世界に通用する質の高いサービスが提供できるか。

断片的な独白(10)

この間あるミュージシャンが言っていた。本当にすごいやつは、あいそ笑いなどしなくてもいいけど、技量も無いのが難しい事やってお客に受け入れられないことやるんだったら、にこにこして、わかりやすいものをやる方がいい。同感でした。今の日本(といっても東京中心の話だが)では、エンターティメントとポピュリズム(大衆迎合主義)とがとり違えられているし、かたやシリアスといってもアメリカ、ヨーロッパのコピーの域をでてないから、人に伝わらない。進駐軍ジャズと呼ばれたなかで、一人一人は、魅力もあり、ご苦労もされた方々が多いとは思うが、物まねから入って、本物らしくやるのがかっこいいで終わってるから、今の時代にはもう通用しないんだ。自分をはじめとして、その人の中からにじみでてきたものを人は聴きたいんじゃないかな。ただ受けねらいで、意識で固めたものなんか人は見抜く。第一そんな人に媚びたものは、エンターティメントでもなんでもない、ただ迎合してるってだけ、勝負できるものがないからやってるにすぎない。またそこにのってくるお客もたいした客じゃない。バブルみたいなもんで、すぐ消えるし、虚しくなっちゃうんだ。だから、やる側の人間はもっともっと磨かないとと思う。お客さんが聞いた事ないことでも、こういうのはいかがですかと提供して、聴く側も反応して、文化って成長するんじゃないですか?あらかじめ知ってることだけやってるんだったら、生演奏聴く事もないし、酒場だっていつまも進駐軍じゃ人は去ってくのも当然。卑下でもなんでもなく、自分たちはまだまだ未熟すぎるんだと素直に思う。

『君主論』ニコロ マキアヴェッリ著(岩波文庫)

いだきしん先生の経営者の講座の中で話が出たので、改めて目を通してみてまず感じたことは、マキアヴェリズムに対する一般的に伝わっている悪い印象がまったくなくなったところです。目的の為には手段を選ばずというフレーズが、ともすると冷徹で人間性を無視したものと言う意味で語られている文章をよく見てきたからだと思いますが、実は、人間の本質を冷静に掴み、現実を直視することで、第一線に立つ人が、困らないようにすることを語っているのだと理解できました。マキアヴェッリの生きたルネッサンス期のフィレンツェは、歴史的な大転換期で、先日塩野七生さんもテレビで言っていましたが、ルネッサンスというのは、ローマ帝国以後、1000年、キリスト教社会でやってきたが、人間は何も変わらない。変わったのはせいぜい、ローマ時代の人間同士の殺し合いの格闘の見世物を禁じたぐらいだと。それならば、ギリシア時代の原点に立ち返ってもう一度人間を見つめ直そう、ありのままに表現しようということになって、それがメディチ家の経済力とあいまって花開いたということですが、マキアヴェッリの感性というのもそんな時代の風をうけて育ったのでしょう。国の惨状に危機感をいだき、イタリア統一の志なかばで倒れたチェーザレ・ボルジアを惜しみつつ、何とか国を良くしたいという気持ちが、指導者へのメッセージとなっていったのだと思います。最終章に「あらゆる物事があなた方の偉大さのうちに集まってきた。あとは、あなた方自ら実行しなければならない。神が何から何まで手を下そうとされないのは、私たちから自由意志を、また、私たちに属する栄光の部分を、奪わないためである。」とありました。ルネッサンス以上の大転換期といえる今の時代にこそ、現実をありのままに受け止める冷静な感性と実行力が求められていると感じます。

断片的な独白(9)

政治の限界。多数決によって意思決定する議会制民主主義の限界を最近頓に感じる。結局王様を頂点としたピラミッド型の体制が何も変ってないから。現代社会は権力者がわからないように大衆をあやつっている。あたかも大衆が選挙等で政治家を選び、自分たちの利益を代表するようなしくみにはなっているが、それは建前であって、実際にはカネを動かしている勢力の利益になるように大衆は使われている。
ただ、混沌のように見える現代社会も方向としてはこれでいいのだと思う。人間一人一人、個が息づいてきている。多様化のなかで、あるグループにいる人は全部同じ色というのが崩れてきているから。ソ連が崩壊し、資本主義対共産主義というイデオロギーの対立が無意味になってきて一つの大きな枠が崩れた。今度は各地で民族紛争が起こり、それは今も続いているが、民族〜地域と細かく細かくなってきている。それをまとめる政治も本来多種多様なものを十羽一絡げ的に掬い取るという事がそもそも無理なのだと思う。大衆も顔が見え、賢くなってきた。本当はアメリカ追従なのに平和と民主主義の為にとかテロに屈するなとかしか言えない政治家の発言があまりにも薄っぺらに聞こえるのは自分だけではないだろう。党なりある立場という建前のなかに埋没してるのか、歴史的、宗教的な背景を知っていて無視しているのかはわからないが…。期待はできないが、やってもらわないとどうしようもないので。
ある人たちに言わせれば、空想の絵空事としか映らないだろうが、一人一人が良くなる事と人間全体が豊かになっていく事とがイコールにつながって生きていれば良いのだと思う。これが永遠のテーマのはずだ。これができなくて、いつも争い、ほっとくと勝手な事するので、法律や道徳で縛ってきた。なんで勝手なのかといったら、業があるからだ。それを宗教などで閉じ込め押さえ込んだりしてまた大変になる。牢屋にいるのに自由だと思って生きている人達。全てあきらめてるのに悟ったと勘違いしている人達。
なんでも分業化されている現代社会の矛盾と息苦しさ。政治は政治屋の、音楽は音楽屋の仕事と分けられている。自分の気持ちで今の日本をこうしたいんですと言い切れる政治家はいないし、出ないだろう。仮にいても今の政治のシステムのなかでは動けないから…。石原さんみたいに議員辞めた人は言えるけど。音楽ではそれまでの世界を一転させるような革命的な音楽家、天才は出ない。昔の人のやった事を、早くからよく知っているような小粒なのはよくいるけど。メディアが何ぼ膨らませてイメージ戦略やってもそれほど売れないというのは大衆もそれほど馬鹿じゃないということか。やはり本物の出現を待ってる。

断片的な独白(8)

一言でジャズといってもいろいろな捉え方かかわり方がある。まして自分は日本人でジャズの母国アメリカから見たら外国人なわけだ。確かに音楽は国境を越えるとは思うがそう単純に考えるのは日本人ぐらいだろう。現にヨーロッパのある国ではショパンは弾けないということもある。明治以来西欧崇拝がはびこり、さらに戦争に負けて、アメリカの属国に成り下がってる我が国だから、当然アメリカ最高、アメリカ大好き人間が多いのはわかる。ジャズの魅力に取り付かれた人間が、アメリカナイズされた感覚やふるまいにあこがれるのも無理もないところ。だが自分の事を考えるとジャズは大好きだが、アメリカはどうもという感じだった。ただ、もっと考えてみるとアメリカの悪いところはもちろんあるが、良いところもある。それよりも、アメリカにただかぶれて何も考えない日本人が多い事の方にに腹が立つ。かぶれてまねしても始めは良いがいつまでもそれじゃパーになっちゃうよ。だって考えてないんだもの。いい年してもろ日本人の顔かたちした人が、アメリカ気取りしてるのは、どうみても見苦しい。日本人は日本人らしくして、好きな気持ち、尊敬する気持ちは素直に表現すればいいのに。ミュージシャンだったらあこがれから始まっても良いけど、いつまでもそこにいないでちゃんと現実を見つめて、認めるべきだと思う。自分の歌を探求する旅へ一緒に行こうね。(^-^)

断片的な独白(7)

この世にウラの世界があることを感じはじめたのが、中学生の頃、ヘルマンヘッセのデミアンを読んだ頃だと思う。何か暗い、悪魔的なまだ未知な大人の世界がとても魅力的に見えた。その後、学生運動に首を突っ込むようになって、国家権力というものがどんな動きをするのか、学校の教師が、個人のときの顔と違って、教育管理者という立場にあるときどういう動きをするのか等を経験するうちに、はるか遠いところにではあるが、権力によって動いているウラの世界を実感するもその後ジャズ等という超マイナーな世界に逃げ込んで、世間やお金とはトンと無縁な世界で生きてしまった為に、現実をわからないように生きて来た。バンド社会のゆがんだ自意識、半精神病人のようなヤツにはたくさん会ったが、生々しい金と欲の世界からは、逃避的だった。ミュージシャンでも相当稼いでいたらそういウラの世界の現実もわかったかもしれないが。

断片的な独白(6)

日本の一流に安易に留まってたらおしまい。たとえ三流でも世界の三流から一流をめざす。
町内会のセンスに染まるな。町内会の常識は世界の非常識。基本はいくらしっかりしても良いが、知識、技術ばかりで、自分の歌が聞こえない人は通用しない。

断片的な独白(5)

天才とは、どんな人なのだろう。良い面だけ言うとと飛びぬけた能力で人に勇気や活力をあたえたり、時代を引っ張っていく人とか言う事になるが、反面、勝手気まま、超エゴイスト、ジャズミュージシャンだと溢れる才能と共にドラッグ、セックス中毒や反社会的な生き方がお決まりだ。今の管理社会、物質中心の社会の中でドップリはまってたら人は閉塞感を感じる。(まともな人は感じる。それも感じないかいやなことは感じない、考えない人は大勢いるが)そこから逃れる為に、気晴らし、気休めに何かしていることがほとんどだ。(時間つぶしの人生とはだれも考えたくないのでこれも否定する人は多いだろうが)人はだれでも本来の自然な生き方をしたいのに自分で自分をしばることをしている。支配の構造を生まれたときからずっと引きずってきたので人を支配ーコントロールしたいのと同時に何かに支配されたい、はまりたいのだ。
ミュージシャンで天才的なのは、決まってドラッグかセックス中毒なのは、ようするに日常から飛びたいわけだ。しかし、いくら飛んだとしても、あるいは飛んだつもりでも、中毒になったらまた、檻の中だ。無いと不安になるという完全にコントロールされた状態になり元のもくあみどころか、へこんでしまうわけだ。
じゃあ毎日同じことして、地味ーにして、趣味や、カラオケや、酒か何かで気晴らしして生きていくことが幸せなわけでもない。ガーンとはねっかえるか(今の若い人見てるとそれも無いみたいだけど)真綿でじわじわ締められて終わるか、ハネッカエリもドップリも同じ檻の人達ということになる。まず、負けてることを正直に認めるところから始めよう。
フツーにいてフツーじゃない状態。外から見てる分にはまったくフツーなのに、気違いみたいに研ぎ澄まされた状態、エネルギー。

断片的な独白(4)

いだきしん氏のジェンダーの講座に出席すると頭が良くはたらいて、いろいろと言いたくなる。        人って(自分も)本当のこと、本質的な事または、幸せに生きる事と言っても良いことを求めているくせにいざ目の前にそれが現れると怖いのだ。今まで、恨みや不安をバネに生きてきた歴史的な癖がぬけないから。始終まわりや誰かに文句を言ってる人は、20年30年たっても同じように文句を言ってる。不満や文句を自分で作っている様にも見える。幸せになったら、かえってどうしていいかわからなくなっちゃうんじゃないかとさえ思えるほどだ。
同じように、本質的な話や話題はなるべく避けて通るようにしているとしか思えない。TV,マスメディアがそうだし、(避けるばかりか、コントロールしてるし)今、自分がいるバンドの世界も、ジャズという アメリカの音楽をあこがれ、まねてきたのは良いが、そこで止まってるからどうしても表面的になって、スピリチュアルなものが希薄だ。ライトに流すのが主流になっている。あまりマジな話をしたりすると変わり者扱いされる。もともと音楽やっているやつ等く変わり者と言われている人なのに、その人たちに変わり者扱いされたらどうなんだろう?もとにもどっちゃうではないか!例えば、ミュージシャンだったのが、13年もやめてて、また弾きだしたなんて、普通なんだろう?と思うと思うんだけれどほとんどの人は深くは聞いてこない。聞いてくれた人とは話がはずんでいだきしん氏の話やコンサートの話になるんだけれど…。
自分も何もわかっちゃいない人間ですけれど、本来の日本人てこんなもんじゃなかったはず。ジャズが好きでやめられない一人の日本人として、深い気持ちとか魂ある生き方を探求して行きたい。
今のカオス状態からぬけるとさらに淘汰されて、いよいよ本物の時代がくるとい思います。

断片的な独白(3)

今は、ミュージシャンをやってるわけなんだけれど、自分の知る限りでは、ミュージシャンの人は、楽天的な人が多いように感じる。自分もその一員だから、かなりおめでたい部類に入るのだろうが、すぐそこに破綻がせまっているのに何にも関係なく生きている。弱いのに強い人。がんこなくらげみたいなもんだ。(そんなものいるのか?)音楽は、本来魂の表現だから当然スピリチュアルなものだと思うのだが、現代資本主義の社会では、音楽も物質化されてきているというか、より均一化画一化される方向ある。一山いくらみたいに。まあ、こんな事を書くと職人気質の保守的なミュージシャンから文句がきそうだが、私は全然かまわない。どうせ変ってる方だから。(そうでもないか)私は職人さん好きだけど、世の中や社会のことにまったく無頓着で、ただ自分の世界のことだけでやっているとしたら、接点をもてないですね。特別悲観的でも、暗いわけでも、理屈っぽいわけでもない。高校生の頃街頭デモに参加したからといって、別に左翼でも共産党でもないし。魂の交流が大切なんだからと言ったって、なんかの宗教にはまってるわけでもないし…。ただ普通でいたいだけです。本当のことをわかりたいだけですね。それには、まず良い感性があって、必要な知識もないといけないのですが。
若いときはわけもわからずコントロールされ、年取って少し社会のことがわかってくると自分がいかに操り人形で、使い捨てで、我々庶民はブロイラー、家畜状態で生きているかわかった頃にはにっちもさっちも動けなくなってあきらめて終わるという一丁上り的な人生からの脱出。音楽やってる人が自由等という幻想にはまるべからず。最もバブリーな職種と理解しそれをわかったからまたやることもでてきたというもの。

断片的な独白(2)

言葉で表現すること。通じているようで通じてない怖さ。少なくても日本人が日本語どうしだったら、意味がわからないとか聞き逃したりした場合以外は、通じているとの了解のもとに会話なりが進んでいくのが一般的なことだと思います。だけれど例えば同じ「好き」とか「良い」という表現にしても、更にどう好きか、どこが好きか良いかと突っ込んで説明してみても、説明は説明、人の感じていることは皆違う。同じ言葉でもその人それぞれの生まれ、育ち、環境によって皆違うわけだ。
所詮言葉で通じ合う等というのは無理というか、とても信用できないということで、音楽に行ったようなところがあります。ところが音楽の世界に入ってみたら音楽の文法のような世界があって、楽しいのはこんな言い回し、悲しいのはこうという決まり文句的な世界があって、感激したり、涙したりするのもどっか作られた世界に踊らされているだけじゃないかと考えるようになった。感動すらコントロールされている…。
ジャズという音楽も形式や決め事が多いクラシック音楽に対して、即興で自由にやれる音楽というのが魅力だったはずだけれど、これはこれで決め事だらけというか、狭い世界のある感覚しか受け入れないような気難しいところがあり、自分もそこにハマッテると思った。批判や否定的なところから生まれた音楽に批判や否定的な人間が一人ハマッタだけのことだったのだ。ただ、不思議といつも考えさせられたことは、自分が行くところ行くところジャズに出会うのである。気がつきはじめるとおもしろいようにいつもジャズと会うので、しまいには笑ってしまった。ああこれはもう、自分のこだわりであり、要するに業なんだと…。自分から逃げたい、否定したければするほど追っかけてくる。そう考えて見ると、好きなのに正直じゃなかったり、やりたいのにあきらめたり、いろいろやり残している事あるなーと考えるようになったのです。やはり自分はどっか素直じゃなく、いいかっこしたかったのかと…。
ただ好きなことをやるといっても、ものをやり続けるということにはいろいろなことがあるんですよねー。何か一つやりきれば次の展開も見えてくるというもの。そんなで今は音楽を思いっきりやってみようとしているわけです。
言葉のことでいいたいことがあったんだけれども、ジャズと今後の。話になってしまいました。今度書きます。

断片的な独白(1)

私の居た高校では、1969年に学園紛争が起こり、当時の3年生と1年生が中心となって、全校集会、教師との対話集会、バリケード封鎖等を行った。その後、機動隊による封鎖解除、学校当局による大量処分という動きのなかで、運動自体は瓦解、拡散した。私は1970年に入学したので、紛争が当局によって鎮圧された後の白けた空気の中、通学していた。白けの時代とか三無主義(無気力、無関心、無責任)いう空気が蔓延していた時代です。 
私より1年上の運動にかかわったK氏が、仲間達と作ったパンフ(幻のニャロメ軍団書記局編)の中に載せていたのが「断片的独白」というタイトルのエッセイであった。当時の時代の空気ー虚無感、孤立感といったものが、15才とは思えない早熟な、才気溢れるタッチで伝わって来た。その後、K氏も私も学校にまともに通うことができず退学し、高校検定試験を一緒に受けに行ったりもした。そんな氏のことなので、同人誌や詩集を出したり、後に私がジャズミュージシャンのかけだしの頃、ライブハウスに来てくれたりもしたが、いつしか疎遠になってしまった。おそらく某雑誌社に勤めているらしいのだが、確かなことは不明だ。
今、こんなことを書いてみたくなったのは、文学の才能溢れる氏ばかりでなく、理由はどうであれ、あの時動いたある純粋な気持ちがみんなにあったこと、そしてその後、何もなしえず、あきらめと挫折感の中で、自分をはじめ学校や社会から逃げ出す人、ものを言わない(言えない)人になって日常に戻っていった人にもう一度新しい風を送ってやろうという気になっているからだ。
あの頃の自分を思うと、あまりに弱く、無力で、負けっぱなしの人生だったけれど、15,16,17才の頃持っていた純粋な気持ちは今も消えていない。今まで生きてきて、間違ったこともいっぱいやってきたけれど、だからこそ強くなっている自分もいる。みんな元気ですか?元気でやっているといいですけど。青春の時の純粋な心を思い出して一人一人が新しい風を送ること、一見無力な庶民、普通のおじさんおばさんが動き出すこと、何かはじめることがすてきなことだと思います。また、70年代と違い、今の時代はそれができる時代だ。そんな気持ちから、日々感じた事を書いていこうとはじめたのがこの断片的な独白です。

アリエス

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