Category Archives: ブログ


フレグランス6

たまに書くブログと言うか子育て日記その6です。
 成長めざましく身長110.5cm,体重12.8kg,大きい。3才4才の子でも小柄な子は同じぐらいの背格好に見える。その足腰のしっかり度や動きの機敏さで、ああこの子は年上なんだなあとわかるが、パッと見たときは同じぐらいの大きさなので同い年かなーなんて思う。
 言葉の発達がなんといってもスゴイ。まわりの大人達や保育園の友達の言っているのをすぐ真似する。ニュアンスもまねるので、本当に意味が分かって言っているのかなと思うが、わからなくて真似しているだけの表現もあるようだ。先日ぎょっとしたことがあった。母の所へ連れて行った時、お風呂場の洗面所でさっと下半身だけいつものように洗おうとしたら、「パパきたない。さわらないで。」と…。あまりにびっくりして何も言えなくなってしまった。よく思春期になるとパパきたないとか臭いとか言われるという話は知っているのだが、2才になったばかりなのに…。年頃になってそんなことを言ったら怒ってやろうと決めていたのにこんなにも早く言われてしまうとは…。ショック!どこでこんなことを覚えたかと思っても保育園のはずないし、思いつかない。わからない。その後何回もお風呂に入って洗っているがそんなことを言うそぶりもない。未だに分けのわからない忘れられない一言でした。


フレグランス 5

いやー、子供のブログとかいっても半年近く空いちゃったから大分成長して様変わりしてしまうよね。やっと時間がとれるこの何日かにまとめてなーんて意味ないか。朝は簡単にごはん作って、保育園へ送り,帰って洗濯、掃除。午後は少し時間があるので音楽をやってるとあっという間に夕方に…。夕飯の買い物と料理をしてから保育園へ迎えに行き、帰って食事、風呂は最近ママの回数が増えたが、時間があれば入れ、それから仕事に行くという日々が多い。主婦って大変なんだなあ、みんなすごいなあを実感。夜中にやればいいんだろうけど帰るとさすがにバタンキュー。ブログまでいかん。それでもこういう機会を見つけてまた書いていこうと思っております。
 アンパンマンは相変わらず好きで、そこにでてくるいろんなキャラ、メロンパンナちゃん、ミミ先生、ロールパンナちゃん、ホラーマンといった私があまり知らないものまで実によく覚えている。保育園でも同学年のお友達とそのお母さん、お父さんをおそらく全て把握している。前にも書いたが大人とは吸収の仕方が違ってそのまま、ありのまま受け取るようで感動的だ。また、窓の隙間にちらっと見える先生だったり自分の知っている何かだったりするとすかさず言ってくる。保育園の行き来にビルの合間から見える東京タワーなんかもその一つだ。昨年11月頃からシャツは自分で着られるようになり、手伝おうとすると自分でと言っていやがるようになった。今年になってたまにキーボードの所に行って連弾をせがまれるようになった。ピアノをやるかどうかはわからないが、音楽が好きなのは間違いないと思う。今はもっぱら歌うことが好きなようだ。保育園でも家でも、また行き帰りの自転車の中でも童謡をメドレーで披露してくれる。大きな古時計のメロディ等を使った替え歌もうまい。だれも教えていないのよくやると思う。
この何ヶ月かの間にボキャブラリーが爆発的に増えたのだが、未だに解読不明の言葉がある。それはイカンブブとアップンという言葉。アユミちゃんのイカンブブといったりするがなんのことやら…?アップンというのは意味ないように思うが、どこで覚えた言葉なのか?
やはり今年になってから、風ちゃんのこれとか風ちゃんのパパとか、自分のものという所有感覚が出て来ているように思う。また、要求もはっきりしてきて少しでも違うと泣いて訴えるようになってきた。
2月28日、保育園に迎えに行って自転車で帰ろうとしたら、突然「パパ大好き」と…。うれしいのとビックリしたのとどっちかなあ…。「パパもだよ」とかなんとか答えたような気がするも良く覚えていない。
夕飯は低いテーブルで一緒に食べますが、私は仕事に行く時間が迫っているのでだいたいさっさと食べます。風ちゃんがまだたくさん残っているのに私がさっさと食べ終わると「パパ、一緒に食べようよ」と言われてしまい、思わず「ごめんね」。ある時はやはり残り少なくなった私の皿をじーっと覗き込んでから、「パパ、よく食べるねー」。きっと保育園で覚えた言葉なんだろうけど使う場所によって笑ってしまうことが多い今日このごろです。
風香、2才まで秒読みです。


フレグランス4

恐れていたことが起こってしまった。保育園でもベビーグッズの店でもアンパンマンが幅を利かせている昨今、風香もどっぷりアンパンマンにはまってしまった。アンパンマンの人形を抱きかかえながらアンパンマン、アンパンマンと連呼。DVDを見せたら半日ぐらいずーっと見ている。この間なんか朝起きて開口一番にアンパンマンというので思わず苦笑い。ただバイキンマンというのが言えなくて、アンキンタンになっちゃうところが笑える。いつまで続くのか…。


フレグランス3

今日で風香一才6ヶ月、今朝は起きるやママ、ママを連発。最近特に言葉の反復力がスゴい。なんの解釈もなくそのまま受け取って返すことって大人になるとできなくなっているんだよね。このところアンパンマンが大流行りです。


フレグランス2

風香についてちょっと不思議に感じる事。なぜかわからないがわりとみんなに好かれる事、人が寄ってくる事。。こんな事書くと親ばかが始まったと思われるのかもしれないが、そんな手前味噌をあえてここで書くつもりもなく、ずっと感じていた事なので書いておこうと思ったわけだ。保育園の先生はもちろん子供達や親御さん達によく風ちゃん風ちゃんと声をかけられる人気者。道ばたの人や電車の中、レストランの人等に万遍なく?声をかけられる。今日も朝登園したら子供達に囲まれてほっぺをさわられたり、頭をなでられたり…。当の風香はというと特別愛想を振りまくわけでもなく、ただだまーってつったっているだけ。面白い光景だ。こんな子が後2,3年後あるいはもっと大きくなった時どうなっているのであろうか?


フレグランス

風香という娘がいる。現在1才5ヶ月、生まれた時が3280gで大きめだった。4月に生まれたので今行っている保育園でも同じ学年の子の中では一番大きい。あるお医者さんに言わせるとこの子は手が大きいからきっと大きくなるとのこと。別に大きくても小さくても健康に育てば良いのだが、私よりはでかくなって欲しくないかな、やはり…。今までこの子の事を何も書いてこなかった。はじめて笑った時とか、寝返りをうった時とか、言葉を言い始めたときとか、ハイハイ、摑まり立ちから歩行と、まめな人ならきっと写真入りで記録を残しているのだろうが…。そんなことで、少し何か書いてみようと思う。今現在は何でもまね,まね,まねの日々で意味等わからずとも誰かが何か言うとすぐおうむ返し、幼児の吸収力の凄まじさだ。名前の由来はというと私は風が好きだから。。自由でどこから来てどこへ行くのかも知らない目に見えぬ存在。そよ風に吹かれた時の清々しさとはかなさと、暴風の時の有無を言わせぬ力と。そんな風をイメージしてよく曲を作ったりしていたせいもあり、風の香りとつけたわけだが、この子の性格やいかに?優しいのと荒っぽいのが同居しているような感じだなー。誰が教えたわけでもないのに物事を早く良くわかってるなという面と言い出したら聞かない超頑固な所と、だれも教えないうちから出ている面だからやはり我々親からコピーされているのだろうと考えるよりない。皆、そうなのかもしれないが、本当に不思議なことだ。


フットプリンツ15

斎藤先生に出会ったおかげで心身共に健康を取り戻した私は音楽だけの生活やそれまでやってきた自分の音楽が本当につまらなくなってしまった。いだき講座を受講して心身の変化と共に自分の枠というか殻から脱皮したいという要求が湧いてきたためだ。そこで始めた事が昼間の営業の仕事だ。あまりあてにならない韓国製品を問屋やホームセンターに営業する仕事である。そして夜は夜でピアノの仕事という二本立てだ。今でこそライブで食えないミュージシャンが昼バイトするのは当たり前の時代だが、当時はどこもギャラが出ていたので、お金を稼ぐだけならピアノの仕事をとってくればいいわけだが、私は違う事を考えていた。バンド業界の偏った狭い世界が本当にくだらなくてうんざり…。何でも良いから今まで経験した事の無い世界に身を置いて、実績も名前も何も無いところから自分の可能性を試してみたかったのだ。まわりの人には全く理解されていなかったと思う。営業といっても世間的にはバッタ屋相手の商売だし、直接言われたことは一度もなかったが、関根は何か宗教的なものにはまってるとうわさされていたらしい。大体からして音楽自体がある意味強烈な宗教である。マイルスやコルトレーン、パーカー等々皆強烈な個性とカリスマ性を持っている。同じように本田宗一郎や松下幸之助といった偉大な経営者達もそうだし、いわゆる宗教の指導者達、政治家等もそうだ。皆魅力あるパワー溢れる人達なのだ。人がやっかいなのは、何かを信じて一途に追求し素晴らしい成果を上げる反面、信じ込むことによって他を排除しようとする心がはたらいてしまう事だ。ミュージシャン等その傾向が強いから、考えが狭くなりがちだったり、感じ方が違う人を攻撃したり、そうしないまでも自分のことばっかりで人に無関心だったりする。話は飛ぶが今もやむ事がない中東の戦火も元は宗教的な対立である。元来平和を訴えているはずの宗教がなぜ。。子供でもおかしいと思う事をいい大人が延々とやめない。まあそう言う自分も頑固なミュージシャン気質を持つ一人なわけで、そんな自分から抜け出したくなったわけだ。外野でわあわあ騒いでいるやつはいつもいるもので、中でやっている人の気持ちはわかりっこないから言わせておけばいいのだが、1987年頃の私はそんな挑戦を始めていた。その後のことは「いだきとの出会い」で触れているので書かないが、いろいろな貴重な経験をさせて頂いた。そんな経験の全てが現在の私の糧になっていることはいうまでもない。


フットプリンツ14

1984年頃の私は公私共に煮詰まっていたと思う。薬物中毒の生活も長くなり感性も硬直化し、また音楽の仕事ではある熟達した部分はあるものの感動が無くなり、自分の枠をすぐ感じてしまう、ようするにマンネリ化というやつだ。そんな色のない世界に生きていた時出会ったのがM.O.さんだった。当時同じジャズピアニストとして活躍していた。最もご当人にとってジャズピアニストとは言われたくなかったかもしれない。というのもジャズに進んだきっかけが即興演奏としてのジャズ、現代音楽や、民族音楽の延長上にあるジャズという音楽の一つの可能性という観点だったからだ。私の場合はというとジャズのアドリブの醍醐味は大いに感じていたものの、何よりジャズの持つムードが好きだった。M.Oさんの場合、黒人音楽というとむしろポップスとかソウルに魅力を感じていたようだ。そんな同じジャズピアニストでもタイプの違う二人がピアノデュオのライブを何度かした。表に出てくる音は違っていてもとても楽しくできた。自分には理解できない音使いなので面食らう事も度々で普通うまくいかないはずなのに‥‥。元にある音色やリズム感が良いなと感じていたからかもしれない。私の煮詰まってる枠を鋭く指摘してくれたりした事等、本音で語れる人なので信頼感も強かったのだ。なかなかミュージシャン同志で表面的な褒め言葉や批判ではなく感じた事をズバリ言える人はいないものだ。そのM.O.さんが後に斉藤先生を紹介してくれる事になる。


フットプリンツ13

薬物依存等あまり語りたくない部分にもふれてきたが、流れ上書き進めてみよう。1978年頃ドラマーのジョージ大塚さんがよく仕事場に遊びにきて叩いてくれた。今までやったどのどラマーにもないスピード感が凄かった。一緒にやっていると自分がふわっと浮いているようでこういうリズムの出せる人は誰もいない。きびしいので有名な人だったがそれだけのことはある魅力を感じたものだった。そのジョージさんからバンドに誘われた時はようしっ、と思ったわけだ。何度も遊びに来て私をテストしていたらしい。ジョージさんのバンドは、渡辺貞夫さんや日野皓正さんのバンドと共に当時の日本を代表する有名バンドだ。以前にも書いた市川秀男さんや大徳俊幸さんといった名ピアニストもかつてこのバンドにいて、ピットイン等にライブを見に行っていたものだった。そんなあこがれのバンドへの誘いなのだから、大変とは思いながらも二つ返事で引き受けた。ところがその当時のジョージさんのバンドのピアニストに求められていたことは、シンセサイザーを駆使してウエザーリポートとはいわないまでも、伝統的なジャズ(4ビートジャズ)とは違うサウンドを求めていた。こういうバンドにいたおかげで後にずいぶん電気楽器にも触れることになった私だが、頑固で不器用な人間にとっては苦手なことが多く、自分にとっては手かせ足かせをされたような状態でストレスの日々だった。そこにジョージさんの罵声がステージ中でもかまわず飛んでくるわけだからたまったものではない(笑)スリクいっちゃえで悪循環この上ない。2年ぐらいしてやっとわかってきたことがあった。それまでの私はジャズという音楽の中でもほんのある一部のことを集中して追いかけて来た。ジョージさんは長年の豊富な経験からジャズというフィールドの中ではあるが、トータルで広く一般的な音楽のやり方みたいなことを伝えていたのだと思う。形式的な従来のジャズの手法からより自由なあるいは自然な歌(アドリブのソロのこと)、音楽の物語性というかストーリーの起承転結みたいなことだ。その後当然といえば当然なのだが、現実は人間が作ったフィクションの世界、起承転結のようには決して動いていないし、フィクションの世界というか、あっちの世界にとられるのではない、現実そのもののNow & Here の音楽というか音表現ってできないのかとか考えたり、音楽一つとってもヨーロッパ、アメリカを中心に発達したジャズやロックやクラシック音楽が音楽あるいは音の表現の全てではないと気がつくまでにずいぶん時間がかかった。そんな狭い自分から抜け出したと思ったらまたある別な観念に捕われていく。そういう意味では良いプロセスを経験をさせて頂いた。


フットプリンツ12

ドラマーの呉在秀(オージェス)という人がいた。いたというのは、彼は40代後半の若さで癌に倒れたからだ。在日韓国の人で出会った頃は倉田在秀と名乗っていた。創氏改名で苗字や名前の読み方を変えていたわけだ。大陸的と言えば月並みな表現だが、リズムがダイナミックで太い。わーっとおおらかにスウィングして、尚かつテンション高く直線的に盛り上がる感じで、良いドラムだなあと思っていたらわりと一緒にやる機会が増えた。ジェスも私のことを気に入って一緒にやろうということになった。それはそれで良かったのだが、彼はいろいろな薬物に手を出していた。そのひょうひょうとした性格からドラッグ常習者にありがちな暗さが無い。そんなことを理由にするつもりもないがつい興味本位から手を出してしまった。一発目でハイになったのでこれはいけるとなってしまったわけだ。後に他の人から聞くとあわなくて気分が悪くなった人もいるのだから何であんなにピッタリハマってしまったのだろうと思う。気づいたら中毒になっていてそれがないと鬱状態になり人前に出るのも演奏するのも怖いという状態になった。そういう状態は斉藤先生に出会って抜け出すまで8年程続いた。一口に薬物中毒と言ってもいろいろなケースがある。なかには何十年も生きて仕事もこなしている人もいるが、やはり大変な重荷を背負って生きることになると思う。そもそも一線で活躍するようなミュージシャンは感性も体力も人一倍あるエネルギッシュな人が多いわけだが、それが酒やドラッグで30代40代で命を落とすこともざらでないのだから恐ろしい話だ。1940年代50年代に活躍したアメリカのビッグなジャズメンはほとんどヘロインに犯されていたが、並外れたパワーの持ち主が30代40代で亡くなっている。それほどやっていない人はわりと長生きしているわけだから、まともにいっていれば長く音楽活動を出来たものを惜しいと思う。


フットプリンツ11

オーディオラボレコードからトリオのリーダーアルバムを出した1978年は自分にとってある頂点というか転機だったような気がする。河上修さんの会社へのプッシュで実現したレコーディングだったので当然ラッキーといえばラッキーなのだが、今振り返るとどこででもあるいは誰とでも表現できるような確信というか自信がまだ足りなかったように思う。メンバーも山木秀夫さんのドラムスと河上修さんのベースという腕達者な人達なので申し分無く、演奏も当時の自分としてはまあまあの出来で、しかもわりとよく売れたらしい。というのも後にこのレコードはCD化されたからだ。ただ同じ年にレコーディングしたストロードロードというレコードは、決して名前があるわけではないが気心しれたメンバーとのトリオでミスもあるものののびのびと演奏している。中央大のジャズ研究会にいて知り合った中山さんと今回の私の29年ぶりのアルバムの録音をして頂いた猪狩さんによって制作された超レアなレコードだ。当時の私の演奏を気に入って良い記録を残したいという気持ちで制作したそうだ。私自身もその時演奏したい曲を何のてらいも無く好きに演奏していただけで、無心でやっていた。そんな一枚とその2年前に吉祥寺サムタイムのハコ(毎日レギュラーで演奏すること)に入るきっかけを作ってくれた渡辺典保さんのアルトサックスと佐々木秀人さんのトランペットをフロントにしたクインテットのレコードが、去年CD化され発売された。なんとビックリしたことにトリオのレコードはレコードマニアのと言われる人達の間で信じられないような高値で取引されていたという。もちろん限定100枚とか50枚とかいう希少盤だからとうこともあるにはあるが。。話のついでに再発に至った裏話を少々。10年程前だったと思う。見ず知らずの石井さんという方から手紙を頂いた。1976年と1978年にリリースされたスマイル盤のレコードを分けて欲しいとのこと。ただ当時私は音楽活動をやめており、活動する予定もないのでレコードを販売する気持ちもなく、丁重にお断りした。ところがその後何度となくお手紙を頂いて、どうしても譲って欲しいとのこと。そんなにおっしゃて頂けるならということで差し上げることになった。そんなことがあってから10年余、その石井さんは脱サラをし、大阪にある澤野工房というジャズレーベルの副社長をされていた。そしていつか私のレコードをCD化して再発しようと考えていたそうだ。マニアの執念である。どうしても欲しいレコードがマーケットで手に入らないと、海外のプレーヤー宅に手紙を書いてまでして手に入れるとのこと。後日再会したら、あの時(レコードを差し上げた時)もう弾かないって言ったじゃないですかと笑いながらおっしゃていた。人生どうなるかわからないものである。


フットプリンツ10

22才の頃だったと思う。ベースの河上修さんのバンドをやっていた。音がぱきっと立っていて人を引きつける力があるというか、音も立つが口も立つみたいなナイスベーシストだ。結構きついことも平気で言ってしまうので、引く人もいたがそういう人独特の面倒見の良さがあって、バンマスとして良くして頂いた。バンドリーダーになれば、ギャラの交渉やらツアーの営業等、言うことは言わないといけない場面も多々ある。修さんは自分の生活やメンバーの生活のことを考えていた。当時の私といえば音楽が全てで、演奏して楽しければ、気持ちよければそれだけで良くて、あとは知らないみたいな生き方で、つくづく子供っぽかったと思う。その彼の計らいでトリオのリーダーアルバムを出すことになったのだ。


フットプリンツ9

新宿ピットインに出だした1975年の暮れも迫った頃、ベースの水橋孝さんの所属している事務所から連絡が来て水橋さんのバンドをやらないかとのこと。二つ返事で引き受けたら大晦日に新宿歌舞伎町のミラノ座という映画館で年越しジャズイベントがあるから来いとのこと。当日行ってみると控え室等は特になく、廊下にジョージ川口さんや松本英彦さん、菅野邦彦さん等日本ジャズ界の蒼々たるメンバーが出番を待っている。緊張してろくに挨拶もできなかった。ジョージ川口さんのバンドはテイクファイヴを演奏していた。私は水橋さんや後藤芳子さんと演奏したものの、緊張したことだけ覚えていて何をやったかは覚えていない。その後水橋(GON) さんのバンドで九州、四国、中国、富山等いろいろとツアーに出た。また、城島ジャズフェス、琵琶湖ジャズフェス、日比谷野外音楽堂のサマージャズ等のイベントにも出演した。その水橋さんとは最近また再会して良く一緒に演奏しているが、スタンダードジャズ、いわゆる歌ものの心を本当に良くわかっている人だと思う。コードのルートから完全に独立した良く歌う8分音符とおしゃれなベースライン、3連多用のテンション感等魅力がいっぱい。自分が始めた頃以上に情報らしい情報も無い時代によくあそこまでで吸収し、自分のスタイルにできたなと脱帽するばかりだ。その頃の私といえば九州のツアーでなかなか思うように演奏することができず、夜中の佐世保の街を走り回ったりしたものだった。(笑)歌の伴奏もうまくいかず、また好きにもなれずストレスを溜めるようになっていった。当時の私はテンション溢れる攻撃的でストイックなジャズにはまっていた。マイルスデイビスの黄金のクインテットと言われた60年代のバンド、ほぼ同時進行のハービーハンコックのバンド、ウエインショーターのブルーノート時代のバンド、チックコリアの60年代のバンド等だ。10代の頃アニタオデイを良く聴いた時もあったが、後にディオンヌワーウィックの歌うバカラックものやジョアンジルベルトやエリゼッチカルドーソ、エリスレジーナといったブラジル音楽と出会うまではほとんどヴォーカルものを聴かなかった。今思うに、歌ほどストレートな表現はないし、良い歌の人と一緒に演奏することは本当に楽しいことだ。当時はそれがあまりよくわからなかった。


フットプリンツ8

そんなこんなで、1974年頃からプロとしてのキャリアをスタートさせた私だったが、ここで当時のライブハウスの状況を話してみよう。新宿ではピットイン、タロー、渋谷では86、銀座ではジャンク、スウィング、六本木はミスティ、バードランド、サテンドール、アルフィー、ボディアンドソウル、バランタイン、ミンゴスムジコ、高円寺のアズスーンアズ、吉祥寺ではサムタイム、赤いからす、横浜ではバーバーバー、よいどれ伯爵、ストーク、ウィンドジャマー等々、今も続いている店、消えてしまった店と様々だが、今よりは盛んだったように思う。まあ、当時と今では遊びの形態も変わって来た。当然DVDも無い時代、生演奏の魅力も今以上だったのだろう。先程今より盛んと書いたが、むしろみんなのんびりしていたというか、余裕があった。スゴい人が出てるというので通った新宿のタローも客が1人2人とうこともざらにあった。それでもやる方も聴く方も全然おかまいなしにやっていたように思う。聴きたくてもお金がないとき、昔のピットインのステージの裏手に行くと音が少し漏れてくる。それを外で立聴きしていたこともあった。そんなあこがれのピットインの舞台に上がった時は本当に緊張した。ライブは朝の部、昼の部、夜の部と三部制。朝からジャズかいと思わなくもないが、一種のジャズ道場的な雰囲気を持っていた。私の出ていた朝の部は11時頃から音を出していたように思う。菊池昭紀、佐々木秀人さんの双頭コンボでChick CoreaのLitha等を演奏したが、ダブルテンポになったり元のテンポに戻ったりとやっているうちによれそうになり冷や汗かいたり、まあいろんなことがあった。当時の日本のジャズライブシーンはコルトレーンバンドの影響が主流だったせいか、ピアニストもマッコイタイナーを追いかけている人が多かった。例の左手でドーンジャーンジャーンとやる一発ものというワンコードの中で自由にインプロヴァイズするスタイルだ。私もジャズを聴き始めた頃はコルトレーンバンドの後期から入ったのでマッコイのピアノも良く聴き好きだったが、ライブを始めた頃はハービーハンコックにはまっていたので、そんスタイルのピアニストを聴きにライブハウスに通ったものだった。当時のジョージ大塚さんのバンドのピアニストだった大徳俊幸さん、初代ジョージ大塚トリオのピアニスト、市川秀男さん、また日野皓正さんのバンドの益田幹夫さんはあこがれのピアニストだった。


フットプリンツ7

キャバレーのハコの仕事(毎日レギュラーで同じ店に出演すること)は結局3,4ヶ月でやめたと思う。ぽつんぽつんと入ってくる仕事をこなしながらやっていた頃、サックスの渡辺典保さんの紹介で今度吉祥寺に新しく店がオープンするので、ハコでやってほしいという話がくる。先方のオーナーがいちおうオーディションしたいから中央大のジャズ研の部室に来てくれとのこと。そこでお会いしたのがサムタイムのオーナー故野口伊織氏であった。オーディションでOKをもらい、ピアノ、ベース、ギターで毎日入ってくれとのこと。今や老舗のライブハウスサムタイムもスタート時はハコの店だったのです。野口氏が当時話していたことには、ニューヨークのジャズの店を回って感じたのは、以外にピアノ、ベースのデュオの店が多かった。あまりジャズ色を出し過ぎないためにドラムレスにして、ジャズ好きの人以外のお客さんにも来て頂けるような店にしたいとのこと。当時の自分はオーソドックスにドラムスが入ったトリオやカルテットをやりたかったので、その点は不満だったのを覚えている。オープンして一年ぐらいした頃か、お店でケニードリューとペテルセンのデュオを呼んだ。それまでマッコイタイナーグループ等のコンサートは何度か行ったがピアノのすぐ近くで鍵盤を走る指を見ながらのジャズライブは初めてで興奮したものだ。その後ハンクジョーンズのソロピアノも鍵盤のすぐ後ろで見ていたので、あの細長い指でテンスのスウィングベースを引くのを目の当たりにして、これまた強烈な印象を覚えた。オープニングはヤードバードスーツだった。私はまったく知らなかったマリアンマックパートランドという女流ピアニストが遊びに来ていて一曲ヒアーズザットレイ二ーデイを弾き、とても素晴らしかった。その後もレイブライアントのソロ、デュークジョーダンとロイへインズ等、当時バリバリだった(もっともロイヘインズは今もバリバリだが)ジャズのスター達が結構来ていて、彼らを間近に聴けたということは大変ラッキーだったと思う。


フットプリンツ6

部外者なのに勝手に住み着いて某大学の寮生活?を始め、ジャズピアノの練習の日々を過ごして一年ぐらいたった頃だと思う。ふと他の人はどんなことをやっているのだろうと思い。六本木にあったジャズ学校に行くことにする。当時はまだ大学のジャズ研全盛期の頃である。すんなり大学にでも入っていたら、ジャズ研の門を叩いて、一緒に練習したりバンドを組んだりする仲間にも出会えたかもしれない。が私の場合周りにはジャズのリスナーはいても演奏できる人は限られていた。ならば、学校に行けば一緒にやれる人と出会えるかもしれないし、自分だけでやってきたので、一回人に習って自分のやってきたことをチェックしてみたいという気持ちもあった。結果、中央大学のジャズ研にもぐりこむ。そこではセッションできるぐらいのレベルの人が何人かいたので、おもしろくてよく出かけていったものだ。また、そこで知り合ったベースプレイヤー、ドラマーと意気投合し、ベーシストの紹介で始めてプロの仕事を経験する。小岩の大きなキャバレーでバンドもビッグバンドだった。ビッグバンドジャズは興味が無かったのでそれほど乗り気ではなかったのだが、せっかく来た仕事でもあるので何事も経験とばかりに始めたのは良かったが、このバンドが大変。たしか自分とベーシスト以外は全員60代ぐらいのおじいちゃんバンド。おじいちゃんで悪いことははないのだが、音がひどくて一日めで嫌気がさしてしまった。アンサンブル等ギョエーっと不協和音の連続。譜読みも慣れていなくて大変だったが、読んでも何でこうなるのといった間違ったコードが平気で書いてある譜面でこれまたまいった。日に日に嫌気がさし、とうとうある日衝動的に店とは反対方向の電車に乗ってしまい仕事に穴をあけてしまった。ベースの人から仕事をなめちゃいかんぞみたいな事を言われたと思う。確かに言うとおりだがよくあの音に耐えられるなとその神経を疑った。


フットプリンツ 5

高校をやめ大学の寮に住み込んでジャズピアノを始めた私は夜はバイトで生活費をかせいでいた。お茶の水の山の上ホテルの地下のレストランでボーイをやっていた。何せ音楽以外はやる気のない病の私である。ぼーっと突っ立っているだけで、ろくに客のオーダーも目に入らなかったのではないかと思う。オレンジジュースを白いドレスの上にぶっかけちゃったりするドジも。もうサイテー。ただここの店にハコで入っていたソロピアノのMHさんのピアノがうまかった。今聴いてもとてもセンスの良い演奏ではなかっただろうか。ホテルなのであくまでもBGMに徹するせいかグリーンドルフィンストリート等のジャズスタンダードの曲でもボサノバで弾く。ただしコードサウンドがジャズなのである。リズムも小気味良く、いわゆる流しているソロピアノと比べると一枚も二枚も上。極上のBGMソロピアノである。自分はあんなにうまく、しゃれたピアノを弾ける日は来るのかと、取り替えなくてもまだたっぷり入っているポットの水を替えながら、ぼーっと突っ立ちながらも耳は釘づけになっていた。そこで覚えたのがソーナイス、ウィチタラインマン、ゴッドファーザーのテーマ等だった。そのバイトを終えて夜地下鉄の落合駅から寮まで歩いたのが私の曲のタイトルにもなっている早稲田通りである。


フットプリンツ4

この辺で、当時の私のおかれていた状況というか、環境について少し述べておこう。前回、高校をやめてドロップアウトした先輩達とバンドを組んだ話をしたが、その時外語大の寮にいて練習していたと書いた。外語大生でもない私がなぜそんな所にいたか。それは前々回に書いた私にジャズのレコードの教育をしてくれた赤坂東急プラザの地下のスナックで働いていたマドンナ的お姉様が元外大生で青解(社青同解放派)だったのである。また私より6年上の高校の先輩も外大の全共闘でドンパチやっていて、その辺がパイプになっていたのだと思うが、なんと当時の寮長がピアノ持ち込みで住んで良いと言う。即決で私のピアノ人生が始まった。20畳ぐらいの畳の部屋に私一人で住むというときもあった。ジャズが好きで理解のある先輩同室人もいたのだが私のへたくそな練習が執拗に続く為か他の部屋に移っていった。ただ私が人の気持ちも意に介さない程夢中にやっていたのか、まわりの人が暖かかったのか直接文句や苦情を言われたことは一度もなかった。後に学生運動家の巣窟と言われ新聞や朝のワイドショーに暴力学生寮として取り上げられた寮だったが、住人はアウトローではあっても一人一人は気のいい、人の良い人ばかりだったような気がする。寮の真ん中には廊下が一本通っていて両サイドに部屋が20部屋ぐらいあったか。古い木造で昼なお暗く汚い。畳に土足で上がって隣にあった酒屋から貰ったビールケースに戸板を乗せたベッド。ガラスが割れても無法地帯なので(笑)だれも修理せず、ある冬の朝いやに冷たいと思って目覚めたら枕元に雪が積もっていた。窓ガラスの割れている所から降りこんで来たのだ。そんな所で夜のバイトが無いときは日がな一日中ピアノに向かっていたものだった。


フットプリンツ3

さて話は前後するが、中学の時、ラジオの深夜放送というのがブームになった。今や全国的な人気者になったみのもんたやライブドアの買収騒動でターゲットになったニッポン放送の亀渕社長はかつてこのラジオ深夜放送のディスクジョッキーだったのだ。ポップスやロックのヒット曲をトークを交えてかけていく。当時のトレンドだった。ポップス、ロックにはまっていた私としては当然チェックしていたわけだが、そのなかで深夜12時前後だったと思うが、ナベサダとジャズという番組があった。よくなにげにスイッチを入れるとかかっていたのだが、当時の自分はこれがまったくチンプンカンプンでどこがいいのかさっぱりわからず、すぐちがう局に変えていたものだった。サックスのアドリブというのがただブカブカやっているだけにしか聴こえなかったのだ。それが5年後ぐらいには毎週のようにチェックするようになるのだから不思議だ。他の人は知らないが、自分にとってジャズはパッと飛び込んで来てすぐピンと来たものではなく、何回か接しているうちにじわじわとしみ込んで来るように入って来た音楽だった。
 話を戻そう。バンドを結成した所からだ。なんとか頭数はそろったものの、なかなか上手くいかなかったように思う。いちおう理論書は本場アメリカのデルボ社という所の出したものがよさそうなので、訳本を買ったのだがスケールやコードの理論はわかっても,本当にみんなこんなのでやってるの?と思う程実際と結びつかず暗澹としていたのを思い出す。しかもジャズピアノ版というのが出て、喜んで買ったら、第一章テディウィルソンとかいっていきなり左手10度のスイングベースを練習しましょうなんて。。。手が届かないって言うの。欧米の人はできるかもしれないが。。それに私はモダンジャズを理解したかったので、ウイントンケリーとかガーランドとかトミーフラナガンのスタイルを知りたかったのだ。じゃあコピーすれば良いんだと思い、聴き取ろうとするがこれが全くわからない。レコードを聴きながらコピーするなんて当時音楽の訓練も素養も大してない自分にとってはできる芸当ではなかった。それがある日外語大のジャズ研でアルトサックスをやっているという人が私の住んでいた外語大の寮に遊びに来て、バンドでピアノを弾いてくれた。エフのブルースの最初のエフセブンにナインスのテンションノートが入ったコードを弾いてくれた時の感動といったらなかった。これこそ探し求めていたコードサウンド。今思えばこんなことも聴き取れない耳だったのかと思う程単純なのにわからなかったサウンドがそこにあった。それを確かマイルスインニューポートのレコードのビルエバンスにあわせて、ストレートノーチェイサーを何度も何度も弾いたのを覚えている。


フットプリンツ2

高校に入ったとたんますますやる気がなくなった私は、入学した前年に高校生のブンザイで学園紛争のまねごとをドンパチやっていた先輩達と意気投合するようになり、だんだん学校をさぼりはじめる。高校は赤坂見附ににあって、坂を上がった所に正門があるのだが、その坂を上がるのがだんだんおっくうになり、すぐ近くの赤坂プラザの地下にあるスナックに(なんと午前中から店を開けてランチをやっているやる気のあるスナック)通うようになる。そして、そこで働いていた元学生運動の闘士?、ドンパチ高校生のマドンナ的存在だったお姉様にジャズの知識を教えてもらう。赤坂から近いせいもありレコードジャズ喫茶の四谷イーグルさんにはよくお世話になってました。あとお茶の水のナルのはす向かいのラーメン屋の脇を入った所にあったジャズ喫茶、名前はなんと言ったかなあ。漫画がたくさん置いてあった。昔のミュージシャンはよくやっていたという話を聞くが、コーヒーかコーラ1杯で2時間、3時間ねばってレコード聴きまくり。コルトレーンから始まってチャーリーパーカー、バドパウエル、セロニアスモンク、ブラウンローチ、エリックドルフィー、ロリンズ、マイルス、ウエスモンゴメリーetc,ハードロックから入ったせいか、友人の影響もあってか、最初はコルトレーンのアバンギャルドに浸っていた。音楽というよりもう直接叫んでるっていうのがそのときの自分にぴったりだった。でもそうこうするうちに、4ビートのリズムが好きになり、抑制が利く所はきいて美しくかっこ良く歌い上げるいわゆるモダンジャズにのめり込む。パーカー、パウエル、ブラウンローチ、ロリンズ等だ。モンクは絶対普通にはやらない変わったこと大好きな根性と、あの独特の間(特にソロの)が好きだった。そんなこんなで学校からはますます遠ざかり、とうとう2年の終わりにやめることになる。ドンパチやっていたやつも卒業が近づき大学受験が近づくと将来のことを考えるから、みんなおとなしくなって消えていったしまう。ま、高校生はその方が良い。私のようなのはドンパチ世代からは一年遅れて来たロストエイジなのに、ロックやジャズの反社会的な空気にどっぷりつかり学校もやめ、レールからは落ちこぼれるところから何かをやらなければいけなくなった。前記のスナックのお姉様も仕事の合間にエレクトーンをかじり始めたという話を聞いたり、高校脱落組の先輩達がジャズバンドを組むらしいという話を聞き、彼らを紹介してもらった。行くと楽器で空いているポジションはピアノかバイブだという。私はピアノはもうたくさんと思っていたのでバイブかと思ったが、先輩が鉄琴と言ったので一気に冷めた。ちょうどエリックドルフィのレコードの中で弾いているマルウォルドロンのピアノのポーンという音が自分に響いて来たので、もう一度やってみるかという気になったのだ。