フットプリンツ8

そんなこんなで、1974年頃からプロとしてのキャリアをスタートさせた私だったが、ここで当時のライブハウスの状況を話してみよう。新宿ではピットイン、タロー、渋谷では86、銀座ではジャンク、スウィング、六本木はミスティ、バードランド、サテンドール、アルフィー、ボディアンドソウル、バランタイン、ミンゴスムジコ、高円寺のアズスーンアズ、吉祥寺ではサムタイム、赤いからす、横浜ではバーバーバー、よいどれ伯爵、ストーク、ウィンドジャマー等々、今も続いている店、消えてしまった店と様々だが、今よりは盛んだったように思う。まあ、当時と今では遊びの形態も変わって来た。当然DVDも無い時代、生演奏の魅力も今以上だったのだろう。先程今より盛んと書いたが、むしろみんなのんびりしていたというか、余裕があった。スゴい人が出てるというので通った新宿のタローも客が1人2人とうこともざらにあった。それでもやる方も聴く方も全然おかまいなしにやっていたように思う。聴きたくてもお金がないとき、昔のピットインのステージの裏手に行くと音が少し漏れてくる。それを外で立聴きしていたこともあった。そんなあこがれのピットインの舞台に上がった時は本当に緊張した。ライブは朝の部、昼の部、夜の部と三部制。朝からジャズかいと思わなくもないが、一種のジャズ道場的な雰囲気を持っていた。私の出ていた朝の部は11時頃から音を出していたように思う。菊池昭紀、佐々木秀人さんの双頭コンボでChick CoreaのLitha等を演奏したが、ダブルテンポになったり元のテンポに戻ったりとやっているうちによれそうになり冷や汗かいたり、まあいろんなことがあった。当時の日本のジャズライブシーンはコルトレーンバンドの影響が主流だったせいか、ピアニストもマッコイタイナーを追いかけている人が多かった。例の左手でドーンジャーンジャーンとやる一発ものというワンコードの中で自由にインプロヴァイズするスタイルだ。私もジャズを聴き始めた頃はコルトレーンバンドの後期から入ったのでマッコイのピアノも良く聴き好きだったが、ライブを始めた頃はハービーハンコックにはまっていたので、そんスタイルのピアニストを聴きにライブハウスに通ったものだった。当時のジョージ大塚さんのバンドのピアニストだった大徳俊幸さん、初代ジョージ大塚トリオのピアニスト、市川秀男さん、また日野皓正さんのバンドの益田幹夫さんはあこがれのピアニストだった。