フットプリンツ4

この辺で、当時の私のおかれていた状況というか、環境について少し述べておこう。前回、高校をやめてドロップアウトした先輩達とバンドを組んだ話をしたが、その時外語大の寮にいて練習していたと書いた。外語大生でもない私がなぜそんな所にいたか。それは前々回に書いた私にジャズのレコードの教育をしてくれた赤坂東急プラザの地下のスナックで働いていたマドンナ的お姉様が元外大生で青解(社青同解放派)だったのである。また私より6年上の高校の先輩も外大の全共闘でドンパチやっていて、その辺がパイプになっていたのだと思うが、なんと当時の寮長がピアノ持ち込みで住んで良いと言う。即決で私のピアノ人生が始まった。20畳ぐらいの畳の部屋に私一人で住むというときもあった。ジャズが好きで理解のある先輩同室人もいたのだが私のへたくそな練習が執拗に続く為か他の部屋に移っていった。ただ私が人の気持ちも意に介さない程夢中にやっていたのか、まわりの人が暖かかったのか直接文句や苦情を言われたことは一度もなかった。後に学生運動家の巣窟と言われ新聞や朝のワイドショーに暴力学生寮として取り上げられた寮だったが、住人はアウトローではあっても一人一人は気のいい、人の良い人ばかりだったような気がする。寮の真ん中には廊下が一本通っていて両サイドに部屋が20部屋ぐらいあったか。古い木造で昼なお暗く汚い。畳に土足で上がって隣にあった酒屋から貰ったビールケースに戸板を乗せたベッド。ガラスが割れても無法地帯なので(笑)だれも修理せず、ある冬の朝いやに冷たいと思って目覚めたら枕元に雪が積もっていた。窓ガラスの割れている所から降りこんで来たのだ。そんな所で夜のバイトが無いときは日がな一日中ピアノに向かっていたものだった。