フットプリンツ番外
最近読んで良かったウエインショーター伝に書いてあったが「現在の音楽の世界ではもはやアーティストの個性などどうでもよかった」と。また、ザヴィヌルのことを書いた本にも、1980年以降アーティストの力でどうこうする時代は終わり、もはや音楽とは会社のイメージ戦略の道具に過ぎなくなったと。CDならCDを売るためにあるイメージを作るそのシナリオの道具としてアーティストなるものが使われているという状態。我々ミュージシャンからすればとても残念なことだが、実際現実はそのとうりになっている。先端まで行っている人だからこそ肌で感じるはずだ。実際優れたミュージシャン程権力の道具にされてきた歴史がある。ビートルズやマイルスの音楽が反体制の若者を取り込み、大量の購買層を取り込むための戦略の道具にされているとは、本人達にどこまで自覚があったのだろうか?結局は支配層のコントロール戦略の道具にされるというおなじみのパターンにより拍車がかかっているという状況だ。60年代ぐらいまではアートとビジネスの葛藤という対立構造だったのが、ソ連が崩壊し二極対立が無くなった90年代には権力にすっかり取り込まれていると言った様相を呈している。実際はベートーベンや、ワーグナーの時代からということはもっとずっと以前からこのような歴史を繰り返して来たのだと思う。ただ感じることは、以前は良い意味でも悪い意味でも余裕があったように思う。ミュージシャン達のあり方、その活動の場ライブハウスの状況とか、お客さんの遊び方等、要するに社会の状況だ。私が音楽の世界から離れて13年。戻ってみたらずいぶんと状況が変わったものだ。まず感じたのは、全体に余裕が無いということ。今の日本、どこの分野にも当てはまると思うが、やる人は増えたがやる場所が無いこと。傲慢と思われてもあえて言わせてもらえばみな適当にうまくなったがその分特長も無くなったこと。画一化というやつだ。技術は細分化されて緻密にはなっているが、どかんと新しいものが出てこないからよく聴くと誰かのそっくりさんだったりするので、一瞬スゴいなと思ってもすぐ底が見えてしまう。さらに同じように上手い人がたくさんいるので、あとはルックスだとかまだ十代だとかいう話題でしかひっぱれない。人の内面に響いて感動が人を元気にしたりすると考えられて来た音楽が、ある時から行き詰まり、ますます表面的に物的になっていると言える。(かつてはジャズも、そして私の物心ついた時にはロックが物質文明とそれを操る権力への反抗と考えられていた時代はとっくに終わり、ロックも若者をコントロールする権力の道具となる)音楽業界自体が硬直化してのぞみがもてないなら、新しいムーブメントが必要に迫られていると思う。ショーターも本で言っていたが、やっぱり人間がまずいて次に音楽があるって、理屈じゃわかっていても本当にそうなんだと実感する。良い意味で海千山千の人間からそういう音が出てくるし、管理されたサラリーマンのような人からもまたそういう音が出てくる。そうなるとショーターのような人はアメリカでももう出てこないだろうと思う。ジャズ自体がほとんど無くなったというアメリカの社会もまた変わっているからだ。この金や物を中心とした世界がますます行き詰まって持つ者と持たざる者の差がますます二極化する現代、本当に面白いこと、夢があることを見つけるのはむずかしいように見えるが、そこをなんとかしなくっちゃいけないんだよな。