子供の頃の話をしてみよう

私は産まれてから21日目に母方の祖母のもとに預けられた。母は子供が嫌いな父にせがんでつくった子供にしては簡単に手放したものだ。まあ学校の教師でもあり性格的にも子育てをするより知識を得ることに没頭することが好きな人なので、当然のなりゆきなのだが。。私もそういう境遇を寂しがったり、不満を持った覚えはない。むしろ祖母のゆきさんを好きだったので良かったのだ。大宮市大門町にあった母の実家には当時母の兄弟である私の叔父や叔母が同居していたこともあり、私のことを年の離れた末っ子のようにかわいがってくれた。祖父は日本橋の証券会社に勤めるサラリーマン。小学校を出ただけで丁稚奉公にだされるが、独学でそうとうやった人らしい。子供は好きだったように思えた。廊下でだっこされていたことを思い出すが、そのときの干してあった祖父のタオルの匂いが少しいやだったことと、酒が好きで愛想良くあやしに来た時ぷーんと日本酒の甘い匂いがしてきてまいったという記憶がある。二階には徳川家康の全集がずらっと並んでいたのを覚えている。毎朝6時に起きてラジオ体操して、きれい好きな人だった。その後私が東京で拾ってきた犬を飼うことになった時毛が落ちるから嫌だと言われ、飼ってはもらったもののちょっと反発も覚えたことを思い出す。色白のちょっと良い男。ものを言う人ではなかったが、父がいないと思っていた自分にとっては影の薄い父親と言ったところか。おそらく日本人の恥を知っていた人だと思う。ゆきさんは足利の機織屋のお嬢さんで使用人を何人もやとっていたような家で育った人らしい。めんどくさがりやで、あまり料理とかしない人のようだ。現に私が子供の頃食べたものの記憶は鮭やタラコのお茶漬けぐらいしかないもの。でも人間というものは何ができるとか、何をしてくれるとかではないが好きな人というのは当然いるので、私はこのおばあちゃんとは気があった。逆だったのは父方の祖母だった。この人はかつてニューヨークに住んだこともある人で、未亡人になってからは横浜本牧にある米軍キャンプの寮の寮母さんをやっていた。食べることが好きでお料理が好きで、12月には七面鳥の詰め物なんか作ってくれた。クッキーもよく焼いては持ってきてくれた。このおばあちゃんは多分とても気遣いのある人で、愛想もある人なのだが、子供の頃の私は大人の作った愛想というものが嫌いで、反発してしまった。しかし決定的だったのはその後東京で飼った犬をえさでつって手名付けてしまい、何か物でつって心を取ったみたいに思えて腹がたったのだった。犬だからえさについていくのは当たり前と言えばあたりまえなのだが。。今となれば苦笑してしまう。